霞が関のトップエリートが集う財務省。トップエリートの多くは東大出身だが、ここに不思議な点が一つある。東大合格者数高校ランキングの上位に常に顔を出す、私立の灘、麻布高校の次官がいまだゼロなのだ。
なぜ灘、麻布出身者はトップになれないのか。当代一の財務省通・岸宣仁氏の『財務省の「ワル」』(新潮社)より一部抜粋して、その理由を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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思いも寄らぬ落とし穴
神戸の医師の家庭に生まれ、灘高校に進んだ原口恒和──。
ここで灘の沿革に触れておくと、この地方で酒造業を営む嘉納家によって1927(昭和2年)に設立された。講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が、創設時に顧問として参画したことでも知られる。神戸市東灘区にある中高一貫教育の男子校で、都立に学校群制度が敷かれた60年代後半、東大合格者数でそれまでトップに君臨してきた日比谷を抜き、私立高校として初めて首位の座に就いた。
そんな灘出身の原口は、70年組でも飛び切り秀才の誉れが高く、国家公務員試験の成績は一番であり、省内でしばしば語られるこの人の灘時代のエピソードがある。「灘中学、高校6年間を通じて、5番以下に下がったことがなかった」というものだ。
秀才揃いの灘で、ここまで安定した成績を収められるのは大秀才の証明であろう。主計局総務課長、近畿財務局長、総務審議官、理財局長と出世コースを歩み、同期に細川という本命がいたため頂点は難しかったものの、国税庁長官は当確と見られていた。
だが、2001年当時の柳澤伯夫金融担当相〔’61〕に請われ、金融庁に出向したところで思いも寄らぬ落とし穴が待ち受けていた。総務企画局長という筆頭局長のポストに就き、あとは金融庁長官に昇格を待つばかりと思われていた翌02年、突然、依願免職の辞令が発表されたのだ。大蔵OBの柳澤との折り合いが悪く、最後は詰め腹を切らされたという噂が流れたが、長官を目前にして退官を余儀なくされた異例の人事に対し、霞が関に衝撃が走ったのはいうまでもない。
灘出身者が1人として財務次官どころか、金融庁長官にさえなれない現実に、さまざまな解説なり、憶測なりがささやかれた。あくまで後講釈のそしりを覚悟で、その主なものを拾うと、次のような声がよく聞かれた。
まず、灘は最難関の東大医学部に進学する理科Ⅲ類の合格者が多く、法学部に進む文科Ⅰ類のそれが多くない。法学部に進んでも、他の進学校に比べて官僚志望者がかなり少ない現実がある。
次に、それが灘の文化なのか、あるいは東京に対抗する関西の文化なのかどうかわからないが、官庁などで上を目指そうとする上昇志向の強い人があまりいないという見方だ。がつがつ上を目指そうとする人に対し、「格好悪い」と否定的にとらえる傾向が強く、学校では“ガリ勉”と見られることを極度に嫌う風潮があるという。