監督ならば、村西とおる
彼女の部屋に足を踏み入れました。10畳ほどの広さのワンルームの室内は女の娘らしいピンクの色調で華やかに飾られてありました。彼女の好きな匂いなのでしょう。男心をくすぐる甘い香水の香りが漂っています。部屋の奥にはピンクのカバーがかかったセミダブルサイズのベッドが置かれていました。
彼女に誘われるままに部屋を訪れた以上、そのベッドの上で然るべき性愛のパフォーマンスを行い、責務を果たして一刻も早く立ち去ることを考えたのです。
彼女から「部屋に遊びに来てほしい」と望まれてから半年ほど経っていました。
彼女とは彼女が「処女喪失ビデオ」に出演してからのお付き合いでしたが、撮影が終わった後はビジネスライクに関係を終えたつもりでしたが、ビデオの中とはいえ「処女を捧げた男」への彼女の執心は尋常なものではありませんでした。
1週間に2度、3度、また会ってほしいとの連絡が入ったのです。正直なところ鬱陶しく感じましたが、初めての男への乙女心だろうと優しく接することを心掛けていました。すべては時間が解決する筈と、甘い考えを持っていたのです。が、彼女は諦めませんでした。一度でいいから私の部屋に遊びに来てほしいとせがみ続けたのです。一度きりなら、と心が動きました。それほど惚れているのなら、との浮いた“男前の”気分もありました。
そしてその日、お別れのSEXをするつもりで彼女のマンションを訪れたのです。が、目を凝らして室内を見れば、自分が危険な立場に追い込まれていることを知ったのです。壁という壁に、数十本の包丁が突き刺されてあったのです。その包丁の先には、私の事務所に所属する女優たちの雑誌のグラビア写真が突き刺され、壁に貼られていました。
部屋の壁一面が、まるで包丁の密林のような風景になっていたのです。不気味でした。身の危険を感じたのです。振り向けばそこに目から妖しい光を放つ部屋の主人の彼女がいました。数分前、私を部屋に迎え入れた時に見せていた可憐な表情とは打って変わって、何かにとり憑かれ狂ったような形相の彼女の手には長さ30センチほどの出刃包丁が握られていたのです。
それを目撃した瞬間「ギャア」と声にならない声を上げると同時に出口の扉に向かい、一目散に駆け出していました。背中で「キーイ」という彼女の奇声が上がり、何かが肩をかすめた感触がありました。包丁の先であることは間違いありません。空を飛ぶように、とはあの時の懸命な自分の体の動きをいうのでしょう。
素早い足の運びは確実に100メートルを人類初の9秒を切るほどのものではなかったでしょうか。
しばらく外を走り、上着を脱いで見ると、肩口の部位がスパッと切り裂かれていたのです。
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