決闘を提案
それだけでも大変なのに、父は自分の学校を開き、人種や素性を問わずあらゆる人を受け入れました。中国武術界のお偉方にとって伝統を忠実に守るのは大事なことで、華人以外の練習生がときたま武術教室へまぎれ込むことはあっても、万人に門戸を開く方針などどこにもなかったのです。ブルースは昔ながらのやり方を“ぶち壊そうと”している不遜な人物で、華人街の伝統派はそれに我慢ができなかった。
1964年の暮れ、サンフランシスコ華人街が父に挑戦状を叩きつけます。この不謹慎な若者にうんざりで、黙らせようと、決闘を提案したのです。彼らの代表が勝てばブルース・リーは武術学校をたたみ、父が勝てば自由に指導を続けてよいというものでした。もちろん父は挑戦を受け入れます。相手が誰だろうと、自分の生き方にこんな指図をさせてはなりません。勝利を確信してもいました。自分の能力を信じていたし、結果はどうあれ、自分と信念を守るために立ち上がらずにはいられない。
ルールはなしだ
映画のような話ですが、私の家族にとってこれは現実でした。父の親友で師範代のジェイムズ・リー(嚴鏡海)とともに、妊娠中だった母もこの決闘に立ち会いました。1964年11月、華人街の代表団が父のオークランド校へ乗り込んできます。刺客として送り込まれたファイターは技量の高さで選ばれたものの、このときの軋轢(あつれき)とは直接関係のない人物でした。さらに華人街側はルールを押しつけてきた。目をえぐってはならない、金的を攻撃してはならない、これはだめ、あれはだめ……。そこで父は彼らを制します。
ルールはなしだ。
本気で自分の生計手段を脅かし、生き甲斐である学校を閉鎖させるつもりなら、何の禁じ手もない真剣勝負でなければならない。父はそう主張したのです。どちらかが気を失うか参ったをした時点で勝敗は決する、以上。華人街側はしばらく相談してこれに応じました。戦う二人以外、全員が部屋のわきへ下がり、父はなんの前置きもなく攻撃に出た。