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頑張っているか頑張っていないかは他者が決めることでない

――その負の遺産が、コロナ禍で追い詰められた人々をますます苦しめているという構造がある。ただ、当時と比較して今回のDaiGoの発言にこれだけ批判が集まっていることには、驚きもあります。

藤田 社会全体が差別発言は許さないという姿勢を示しつつあることはよかったと思います。一方で、多くの人にとって生活困窮に陥ることや生活保護を利用することが、「もはや対岸の火事ではない。明日は我が身だ」と潜在的に身につまされるようになったことが、今回の批判につながったのではないかとも感じます。たとえば同様のヘイトスピーチでも、化粧品大手DHCの会長による在日韓国・朝鮮人に対する差別発言の場合、もちろん批判はありましたが、多くの国民にとって当事者性が希薄だったためか、今回ほど大きな流れにはなりませんでした。

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――そう考えると複雑です。

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藤田 また、DaiGoさんの一件に関して、ひとつ気がかりなことがありました。それは謝罪動画の中でも「頑張っても抜け出せない人がいる」という旨の発言をしていたことです。コロナ禍の取材で私は、「ぎりぎりまで頑張ってしまう人」にたびたび出会いました。“コロナ切り”に遭った後も体調不良を押してネカフェ生活と就職活動を続けた結果、SOSで駆け付けたときには乳がんで即入院が必要な女性もいました。

 頑張っているか、頑張っていないか。それはDaiGoさんのような他者が決めることではありません。「頑張っているから助けてあげる」「頑張っていないから自己責任」、そんなことを自分で勝手に判断できると思っているのだとしたら、やはり傲慢と言わざるをえませんし、「頑張っていないなら価値はない」という最初の発言とほとんど変わらない思考です。

 DaiGoさん個人の考え方もさることながら、こうした浅薄な自己責任論や傲慢さが支持される社会は、大いに警戒すべきだと思います。

 藤田氏が取材してきたコロナ禍の現実は、私たちの耳になかなか届かない。「このままでは『助けてほしい』という声さえ奪われてしまう」と藤田氏は語る。最後にそんな危うい現実を、著書『ハザードランプを探して 黙殺されるコロナ禍の闇を追う』から再び抜粋する。この国で今、何が起こっているかを、私たちは“知る”べきだろう。