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埴輪といえば人をかたどったタイプを思い浮かべるけれど、実は…埴輪が教えてくれる“古墳時代の社会”とは

著者は語る 『埴輪は語る』(若狭徹 著)

『埴輪は語る』(若狭徹 著)ちくま新書

 素朴な顔立ちに、ゆるく曲げられた手足。思わず「かわいい」と口にしてしまう人は少なくないだろう。そんな不思議な魅力を放ち続ける埴輪が、いつ、どのように作られ、いかなる意味を付与されていたかを解説したのが『埴輪は語る』だ。

 著者の若狭徹さんは、群馬県群馬町(現・高崎市)教育委員会に所属していた1988年、古墳の調査中に埴輪を掘り当てた。以来研究を重ね、現在は明治大学で教鞭をとる。

 埴輪と言えば思い浮かぶのが、人の形をしたタイプ。だが、埴輪の歴史の中では最も後出なのだという。

「弥生時代、ムラの儀礼に用いるために、壺とそれを高く掲げるための器台が作られ始めました。器台は時が経つにつれて王のお葬式の道具となり、文様や美しさに重きが置かれます。やがて巨大化した筒状のものになりますが、これが埴輪のルーツです。3世紀中頃に前方後円墳が登場すると、この“円筒埴輪”が数多く並べられ、墳丘を飾り、邪霊から守っていました。

 それから100年後、家や王の道具をかたどった“形象埴輪”が現れます。古墳上に『王の館』を埴輪で表し、埋葬された人物の存在を強くイメージさせたのです」

若狭徹さん

 人物埴輪が出現するのは5世紀。その後200年にわたり作り続けられた。王の葬列や、王の死を確認する殯(もがり)をあらわしているという説があったが、研究の結果、こんなことがみえてきた。

「埴輪が面白いのは、彼ら一体一体が役者の役割を演じていることです。出土現場で、埴輪の位置関係や、どの埴輪が対面しているのかを仔細に研究すると、埴輪たちは複数場面を演じている、ということが分かりました。猪を狩る様子や、巫女が捧げた聖水を受けるシーンなど、王が生前にしていた儀礼が再現されているのです。私が調査を行っていた東国エリアでは、甲冑をまとい武装した“武人埴輪”の出土例が多く、これは東国の王の軍事的役割の高さを示しています。王の死後、古墳に飾られた埴輪を民が見て『王は我々のためにこんなことをしていた』と偲ぶための劇場の役割を果たしていたのです」

 埴輪は、中央のヤマト王権と諸地域との結びつきについても教えてくれる。

「人物埴輪は、次第に東国エリアで独自の存在感を放つようになります。古墳文化はヤマトにルーツがありますが、当時東国の諸王は、倭王と個別に結び付きながら、軍事的、経済的支援を行っていました。その見返りとして、ヤマトは彼らに前方後円墳の築造を認めたのです。実際、東国で造られた古墳は、同じ時期に造られたヤマトの古墳と同じ設計で、縮尺だけが違う。同盟を結ぶごとに、そのときの最新の設計図をもらっていたのです。東国の王は、地域内の勢力争いで優位に立てるよう古墳を大型化させ、それに伴って埴輪も多様化していった。ヤマトで埴輪文化がすたれた後も、東国では作り続けられ、発展を遂げています」

 さらに、埴輪はその時代の王と民の関係を物語っているという。

「古墳造りは、共同体を結びつける集団イベントでした。王は生前から、地域の開発拠点に自らの墓を造営して人と技術を結集させ、参加者には食物を再分配する機能も担わせていました。民は、自分たちに富をもたらす王のために、古墳造りに進んで参加していたでしょう。当時の王は祭祀から経済・軍事まで統べる能力を持ち、人々に信頼され王位に就いていた。その生前の業績が埴輪に表されたのです。民からの信託とその統治能力は現代政治の範ともなるものでしょう」

わかさとおる/1962年長野県生まれ、群馬県育ち。国史跡保渡田古墳群の調査・整備、かみつけの里博物館の建設を担当。高崎市教育委員会文化財保護課を経て、現在明治大学文学部准教授。著書に『東国から読み解く古墳時代』等。

埴輪は語る (ちくま新書)

若狭 徹

筑摩書房

2021年6月10日 発売

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