野洲は単なる住宅の街ではない
それにしても、駅前のスナックやビジネスホテルは、純然たる住宅の街にはふさわしくない。住宅街には人々が暮らすための施設が揃っていればいいからだ。家、スーパー、コンビニ、家族で出かけるちょっとした飲食店、そして銀行に和菓子のお店に理髪店・美容院、あとはクリニックといったところか。そうした日常生活の街には、スナックもビジネスホテルもいらないのだ。
となれば、野洲は単なる住宅の街ではないということになる。そう思って、西側の広場から少し歩く。ほんの5分も歩いていないうちに、答えがわかった。野洲駅のすぐ近くには、京セラの工場があるのだ。京セラの工場の奥にはオムロンの工場もある。そう、野洲駅は住宅のためだけの街ではなく、工場の街だったのだ。
野洲駅近くの京セラの工場、これはかつて日本IBMの工場だった。操業を開始したのは1971年のこと。つまり、まさに野洲は高度経済成長期に“工場の街”になっていったというわけだ。くだんのビジネスホテルはそうした時代に出張ビジネスマンのためにできたものなのだろう。駅前のスナックは工場で働く人たちの仕事帰りの一杯のため。住宅地としての野洲の発展は、そうした工場の街としての側面があったがゆえに促進されたといっていい。1970年には2万5000人を少し超える程度だった人口は、今では5万人をわずかに上回るレベルまで増えている。
交通の要所として栄えた「野洲」
ここで野洲の歴史を振り返るお時間である。野洲の町は、古くから交通の要衝だった。終着駅ではなかったけれど、中山道が通る町のひとつだったのだ。古い地図を見ると、野洲付近には駅の東側に小さな町があるのに加え、南にある野洲川の近くにも集落がある。どちらも旧中山道に沿った一帯だ。
さらに、野洲の町は中山道が二手に分かれる分岐点でもあった。本流の中山道は比較的内陸側をゆく。それに対して、少しだけ琵琶湖の近くを通る脇街道があった。朝鮮通信使がよく利用していたと言うことで、“朝鮮人街道”などと呼ばれていたという。近江八幡や今はなき安土城の麓、そしてひこにゃんでおなじみ彦根の城下町を通るのは朝鮮人街道のほうだ。だからこの地域においては朝鮮人街道がむしろ主要道だったのかもしれない。
近江地方の交通の要衝というと、東海道と中山道が出会う草津や北国街道と中山道が分岐する米原などが有名である。が、野洲も負けず劣らずの枢要の地だった。