だから彼女が亡くなったときに『悪い魔女は死んだ』とかいうミュージカルの歌がヒットチャートの1位になり、日本では「やっぱりイギリス人は反体制でジョークが好き」という捉え方をしてましたが、あれは心底、憎悪しているし、彼女が始めた悪いものが今も続いているという感覚が庶民レベルでもあるから。
藤原 日英で評価の温度差がすごいんですね。
「エンパシーはなかった」
ブレイディ 去年BBCでサッチャーのドキュメンタリーを観ていたら、サッチャーの側近が「彼女にはシンパシーはあったけどエンパシーはなかった」と語っていたんです。新自由主義を代表する人物に「エンパシーはなかった」というのは、新自由主義という経済のあり方や思想そのもののエンパシーの欠如を象徴するようで、すべてが繋がった気がしました。
一つのテーマをいろいろな角度から徹底的に掘り下げる書き方をしたのは今回初めてだったのですが、「これ誰かが私に聞かせてくれてる?」と思うほど、関係の深いことが次々と降りてきたのには驚きました。
藤原 そういうのって神様がポトンと落としてくれるんですよね(笑)。書くことが中毒になる理由です。私の場合『分解の哲学』がそうでした。いろんなテーマをぼんやりとしか設定せず、ふと繋がるのを待ってできるだけ先延ばししながら書いていました。自分自身がビックリしたいので。
憑き物落としをするのは言葉しかない
先日、俳優の松重豊さんと対談したときに彼が言ってたのは、演技では目が驚かないと相手役も驚かないから、セリフは1回忘れると。自分から出た言葉に自分が動揺しない限り、相手はリアルに驚かないんだそうです。ブレイディさんもまた、本当にその都度驚きながら書いているから言葉が生きている。
あと、本書で得たもうひとつの気づきは、不可能だと勝手に思い込まされていたことってけっこう世の中にあるんだなということ。何かにとり憑かれている自分、たとえば大企業のために自分の生活を捧げるような労働をめぐる信仰――、そういう憑き物落としをするのは言葉しかありません。
シュティルナーの「亡霊」という言葉をうまく使われていましたが、何か社会の呪縛によって呪いにかけられたときは呪いで返してはいけない。これをもみほぐすのって言葉なんですよね。
【続きを読む ブレイディみかこが語る“パンデミック時代の生き方”と、藤原辰史の「知性の足がガタガタと震える」世界】
ブレイディみかこ
1965年福岡県福岡市生まれ。96年から英国ブライトン在住。ライター、コラムニスト。2017年、『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』で新潮ドキュメント賞、19年『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でYahoo!ニュース|本屋大賞2019年ノンフィクション本大賞、毎日出版文化賞特別賞などを受賞。他の著書に『労働者階級の反乱』『女たちのテロル』『ワイルドサイドをほっつき歩け』『ブロークン・ブリテンに聞け』などがある。
藤原辰史
1976年北海道旭川市生まれ。歴史学者、京都大学人文科学研究所准教授。東京大学大学院農学生命科学研究科講師等を経て、現職。専攻は、農業史、食の思想史、ドイツ現代史。『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、『分解の哲学 ― 腐敗と発酵をめぐる思考』でサントリー学芸賞を受賞。他の著書に、『トラクターの世界史―人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』『戦争と農業』『給食の歴史』『農の原理の史的研究:「農学栄えて農業亡ぶ」再考』などがある。