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メリー喜多川氏が本当に愛したジャニーズの名前「マッチのために中森明菜に…」「田原俊彦とファンで“全裸監督”と大乱闘」

メリー喜多川氏が本当に愛したジャニーズの名前「マッチのために中森明菜に…」「田原俊彦とファンで“全裸監督”と大乱闘」

壮絶なジャニーズ人生 #1

2021/08/26

genre : エンタメ, 芸能

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 ジャニーズ事務所の“ゴッドマザー”藤島メリー泰子名誉会長が、8月14日に都内の病院で亡くなったことが、同月17日に発表された。死因は肺炎、享年93歳だった。メリー氏の訃報にあたって、芸能記者らはみな「見事だった」と口にした。

「2015年1月の『週刊文春』による取材の現場でSMAPの敏腕担当マネジャーだった飯島女史に激怒してその後退社させ、娘の藤島ジュリー景子社長(55)と滝沢秀明副社長(39)の体制が固まるまでを見届けましたから。一連の騒動を全てきれいに片付けてから亡くなったわけです。

メリー喜多川氏 ©文藝春秋

 2019年7月に87歳で亡くなった弟のジャニー喜多川氏と二人三脚で『男性アイドル帝国』ジャニーズ事務所を築き上げてきた“女帝”の死で、ジャニーズは完全に次のフェーズへと移行しました。責任感の強いメリーさんらしいですよね」(芸能ジャーナリスト)

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経理、金銭面を担当して経営を支えた

 メリー氏は1927年に米国ロサンゼルスで生まれた。父親はリトルトーキョーの高野山真言宗米国別院の僧侶・喜多川諦道氏。弟は、言わずと知れたジャニー喜多川氏だ。1950年代から東京・四谷三丁目でカウンターバー「スポット」を経営していたメリー氏はその当時から芸能、マスコミ関係者に顔が広かった。夫は、明仁上皇(87)の学習院時代の学友として知られ、1997年に亡くなった作家の藤島泰輔氏(享年64)だった。

 1962年にジャニー氏がコーチをしていた野球チームの少年たちでアイドルグループ「ジャニーズ」を結成。1964年にジャニーズ事務所を立ち上げると、メリー氏は裏方として参画。独特の感性で少年たちをクリエートするジャニー氏に対し、メリー氏は経理、金銭面を担当して経営を支えた。

 1968年にデビューした4人組アイドルグループ「フォーリーブス」ではメリー氏がスタイリストとして衣装の製作に関わっている。1975年に「汚れなき悪戯」でデビューしたアイドル・豊川誕の芸名は、メリー氏が東京・赤坂の豊川稲荷東京別院から名付けた。

フォーリーブス

郷ひろみのジャニーズからバーニングへの移籍

 根っからのクリエーターのジャニー氏を支えて、メリー氏は対外的な交渉も担当した。彼女の剛腕が最初に芸能界に轟いたのは、1975年の郷ひろみ(65)のジャニーズからバーニングへの移籍だろう。

 デビューわずか3年での移籍は物議をかもしたが、現在は芸能界のドンの地位に就いた若き日の周防郁雄バーニング社長(80)から「メリーさん、私に(郷ひろみを)やらせてくだい」と頼まれると、あっさりと「いいわよ」とOKしたという。この逸話は、周防氏自身が5年前の「週刊現代」(2016年11月26日号)のインタビューで明かしている。