「この移籍劇には、当時芸能界の大物が仲介に入っていました。そのため、郷に未練を残すジャニー氏を尻目に、メリーさんは冷静な判断を下して郷ひろみを手放したんです。移籍に関しては、それ相応の移籍金が払われたと聞いていますが、それ以上にジャニーズが手にいれたものは大きかった。
この出来事以降、芸能界での発言力が高まり、男性アイドルはジャニーズが独占するという暗黙の了解が芸能界で形成されていったんです。結果、メリー氏はジャニーズ帝国を繁栄へと導くことになりました」(スポーツ紙芸能デスク)
フォーリーブスの人気が衰え、郷を失ったジャニーズ事務所は一時期低迷期に入ったが、「たのきんトリオ」の登場で一気に盛り返す。田原俊彦(60)、近藤真彦(57)、野村義男(56)の3人は、1979年に始まった連続ドラマ「3年B組金八先生」(TBS系)の生徒役でデビュー。ジャニー氏が彼らをアーティストとしてプロデュースする一方、芸能界の“大人たち”から愛されるようにと、メリー氏が言葉遣いや礼儀作法を教えることでバックアップした。
田原俊彦とセクシー女優のアバンチュール
先陣を切って1980年に「哀愁でいと」で歌手デビューした田原俊彦はレコード大賞最優秀新人賞を受賞。一気にトップスターの座に上り詰めて、1987年の連続ドラマ「ラジオびんびん物語」(フジテレビ系)をはじめとする「びんびんシリーズ」で主演するなどわが世の春を謳歌した。
そんな田原に大ピンチが訪れたのが、1988年にセクシー女優、梶原恭子との一夜のアバンチュールを「週刊ポスト」(小学館)に報じられた事件だ。この事件をうけて、「全裸監督」で話題の村西とおる監督(72)が、報道直後に「ごめんね! トシちゃん」と題した梶原主演AVを発売。当時、男性アイドルは“清廉潔白な王子様”であることが求められた時代。田原のファンたちは騒然となった。
「メリーさんは、田原と現社長のジュリーさんを引き連れて、小学館に乗り込んで、村西監督や梶原と全面対決しました。おろおろする田原を尻目に、相手を一喝。さらには田原のファンを“対決現場”に引き入れて、梶原に非難の声を浴びさせました。豪腕ぶりは当時から際立っていました」(女性誌編集者)
田原は1994年にジャニーズ事務所から独立。その後はジャニーズのタレントとの共演を拒否されるなど、苦難の芸能活動を余儀なくされたが、メリー氏の訃報に接してこう振り返っている。
「厳しくて、優しくて、お母さんのような存在でした。感謝しかありません。僕が一番面倒くさいタレントだったと思う。いろいろ指導してもらって、ディスカッションもしたし、怒られた」