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 流路は甲州街道の反対側にも断続的に残り、さらに京王線の反対側まで回り込むと、車の絶えない環七通りのすぐ脇に、再び蓋掛けの水路が現れる。

道路を神田川支流の暗渠が横切る。蓋掛けの水路がなぜか舗装されずに残っている。 ©本田創

 暗渠は細い路地に沿って続く。これを遡って行くと、数十メートルほどで暗渠はマンホールにぶつかりぷつりと消える。ここがいわば川の始まりの地点だ。すぐ先には玉川上水旧水路の暗渠が通っている。かつて上水が開渠だった頃、そこから漏れ出した水も加わっていたかもしれない。

蓋掛けの水路はマンホールのある場所で突然終わる。ここが神田川支流のいわば源流地点だ。 ©本田創

ささやかな、けれどもたしかに“そこにある”水辺の記憶

 最後に川の呼び名ともなっていた「幡ヶ谷分水」について触れておこう。この分水は京王線笹塚駅の近くで玉川上水から水を引き入れ、甲州街道に沿って西向きに流れたのち先に触れた三郡橋で、神田川支流に合流していた。開通したのは江戸時代後期の1775年。分水口は15cm四方と、玉川上水に三十数か所あった分水口の中でも最小の部類に入るもので、水は慢性的に不足していたという。

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 水への切実な思いは、幡ヶ谷村の人たちをある行動にまで駆り立てる。明治20年代、村人たちは分水口のすぐ傍らに弁財天を祀ることを決め、脇には弁天池が掘られた。すると池から「たまたま水が湧き出した」ため、分水の水を増やすことができた。実はこの湧水は玉川上水の水であり、弁財天は上水から盗水するための方便だったのだ。大正末期には水田の減少で水は足りるようになり、池は埋められて弁財天は移転した。

 笹塚駅付近の玉川上水は現在でも暗渠とならずに素掘りの水路が残されているが、その土手には「幡ヶ谷分水」の取水口の跡が残っている。

 神田川支流は都心近くの暗渠でありながら、数々の橋跡や様々な時代の川にまつわるエピソードが潜んでいる。支流の暗渠も多く、それぞれがまたささやかな、けれども興味深い水辺の記憶を湛えて潜んでいる。紙面の制約上今回は全てに触れられなかったが、ぜひ実際に歩いてみて、水辺の記憶を探してみていただければと思う。

失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩 改訂版

本田 創

実業之日本社

2021年2月1日 発売