2020年代になっても絶え間なく再開発が進む西新宿。商店街が丸ごと姿を消すなどその変貌は激しいが、そんな中で1世紀近く昔、大正時代や昭和初期に架けられた橋が今なおこの町に残っていると聞いたらどう思われるだろうか。しかも橋の下を流れていた川は50年以上前に暗渠となっているにもかかわらず、だ。

 前回の記事では渋谷川の暗渠を新宿御苑から渋谷まで辿ってみたが、今回は笹塚から幡ヶ谷をへて西新宿へと流れていた「神田川支流(玉川上水幡ヶ谷分水・和泉川)」の暗渠を源流に向かって遡ってみよう。そこには変わり続ける町の中で見えなくなった、人と水辺との関わりの記憶をとどめる風景がある。

暗渠を横切る橋が短い間隔でいくつも姿をとどめる。 ©本田創

定まらない、川の呼び名

「神田川支流」は京王線代田橋駅付近を源流とし、西新宿5丁目で神田川に注いでいた4kmほどの川で、いくつかの支流も含めて1960年代後半に暗渠化されている。昔から定まった呼び名がなく、流域の大部分を占める渋谷区では「神田川支流」という味気ない名称で管理されてきた。神田川の支流は他にもいくつもあるが、渋谷区内にはこの川しかなかったためだろう。

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 近年では、戦前の「中野区史」の挿図を典拠として「和泉川」と呼ばれることも多い。ただ、和泉はいくつかある源流の一つの地名にすぎず、おそらく便宜的に記されたのだろう。

 一方、大正期の東京市の資料などでは「幡ヶ谷分水」と呼ばれている。これは上流で玉川上水から水を引き入れ、流域であるかつての幡ヶ谷村の水田に利用していたためだ。川のほとんどの区間は幡ヶ谷を流れているから、こちらの方が適切に思える。

 なお、下流部の新宿区内の区間は砂利場川とも呼ばれていた。いずれにしても、川の名前は必ずしも明確に定まるものではなく、必要がなければ無名のままのこともあることを、この神田川支流の例は示している。

神田川支流の流域地図。本流のほか、いくつもの支流や傍流があった。(地理院地図を加工)

関東大震災直後から1950年代まで…橋跡の規模は都区内有数

「神田川支流」の暗渠の特徴は、主に中流から下流にかけて数多くの橋跡が残っていることで、その規模は都区内有数だ。それらが架けられた時代も、関東大震災直後、大正時代から暗渠化直前の1950年代まで幅広い。どの橋も、水面に架かっていた時間よりも暗渠になってからの方が長いのがなんとも不思議である。