病院の外で死を迎えた“異状死体”は現場に臨場した警察が扱い、そこで犯罪性が疑われた場合には、死因を突き止めるプロフェッショナルである法医学者が解剖を行う。これは日本における死体の取り扱われ方の基本だ。しかしながら、ときに検察から「法医学者による記述を削除するように」との働きかけが行われることもあるという。

 ここでは、国際ジャーナリストとして活躍する山田敏弘氏が、“異状死”として死体を取り扱う現場の実態に迫った著書『死体格差―異状死17万人の衝撃―』(新潮社)の一部を抜粋。旭川医科大学教授で日本法医学会の庶務委員会理事を務める医師、清水恵子氏が経験した“忘れられない事件”を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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忘れられない事件

 清水の場合、解剖は前日までに連絡が入り、午前中には執刀、解剖後は鑑定書を作成する。解剖が複数なら、すべての遺体の執刀が終わるまで解剖室で作業し、それから鑑定書を書く。大学に属しているため、それらと並行して教育や研究も行っている。

 大学の授業や委員会などがあれば、夜中まで作業が続く。教科書改訂作業、雑誌の執筆作業などもある。

 土日や祝日は、北海道で司法解剖ができる3大学(北海道大学、札幌医科大学、旭川医科大学)が、交代で勤務をする。当番制で解剖を担当するのだ。

 この制度について話をしている際に、清水は冗談っぽく笑いながらこう漏らした。

「1年の土日祝日の3分の1が待機も含めて当番で拘束されることになります。それが定年まで続きます。定年後は何をしようかな、と今から少し楽しみにしています」

©iStock.com

 旭川医大の法医学講座は、年間250体ほどの解剖を行う。

 北海道では、異状死体(編集部注:病死・自然死以外の死亡死体)に対する解剖率は10.3%で、これは全国平均である11.5%と比べても遜色はない。清水がこれまで執刀した遺体の数は2000体以上、助手として関わった数は1300体程度にもなる。

 裁判に出廷する仕事もある。法医解剖を担当している清水の場合、9割ほどは検察側証人となるが、1割くらいは弁護側の鑑定や証人も依頼される。

 警察や検察の捜査や裁判などに話が及ぶと、清水はぽろっとこんな本音を吐露した。

「被疑者が女性で、捜査機関や司法、マスコミという公権力から『いじめ』にあっているように思える案件は、何を敵にまわしても、正義を主張したいと思っている」

 そう言った清水は、すぐにこう言い添えた。

「まあ、そんな事ができるのも、国立大学の教員だからだと感謝していますよ」

内縁の夫の首を自宅にあった包丁で刺す

 そんな清水の「人間らしさ」を垣間見ることができるエピソードがある。2009年に起きた事件にまつわるものだ。

 同年2月、北海道紋別郡興部町(おこっぺちょう)で、パート店員だった女性(39)が、殺人未遂の疑いで逮捕された。当時の警察の発表によれば、女性は朝の6時ごろ、同居中だった内縁の夫の首を自宅にあった包丁で刺した疑いを持たれた。内縁の夫は、搬送先の病院で死亡した。

 事件は、朝の些細な喧嘩から始まった。早朝に、内縁の夫が設定していた携帯電話の目覚まし時計の音をめぐって、両者は口論となった。その音があまりにもうるさかったからだという。

 女性は前夫からドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)を受けていた経験があったため、夫婦喧嘩になると刃物を手にとって自己防衛する癖がついていたという。その朝も、興奮して、洗い場にあった前夜に使い始めたばかりの刃渡り12センチの果物ナイフのようなものを掴んで夫を威嚇した。