夫は全身麻酔を行うため、人工呼吸管理で気管支にチューブを入れられ、酸素と麻酔薬のガスが強制的に肺に送り込まれた。だが肺の表面に傷のある状態で肺の中に空気やガスを注入したことで、空気もガスもすべて、血が溜まっている胸腔内に漏れ、胸腔内をどんどん圧迫していくことになった。そして心臓や静脈も圧迫されて動きが阻害された。その状態を医療用語では「緊張性気胸」と言うが、それが手術中に起きた可能性があり、脈拍や心拍数が見る見る落ちていった。
その様子を見た病院側は自分たちでは手に負えないと結論付け、胸部外科がある別の市立病院に搬送する手続きをとった。搬送先の病院は90kmほど離れており、搬送途中に夫の心臓は停止した。
捜査資料によれば、夫は、市立病院に到着時には心臓が停止してから30分以上経過して死亡していたが、病院で傷口のガーゼを外すと、心臓が動いていないにもかかわらず、300mlほどの血液が噴き出したという。左の胸腔内の圧力がいかに上昇していたのかがわかる。
作られた「殺人罪」
こうした経緯があったために、遺体は司法解剖に付されることになった。そして、旭川医大の清水が執刀した。
清水は解剖を始めると、遺体に残された異常に気がついた。治療が不適切だった可能性が清水の目には明らかだった。
例えば、遺体の左胸壁に胸腔ドレナージを挿入した痕跡は見当たらなかった。つまり、胸腔内から血液を抜く措置をした形跡が遺体にはなかった。
清水は医学部大学院在学中に学位論文の作成と並行して麻酔科研修を行っていたこともあって、麻酔科標榜医の資格を取得していた。麻酔科でも修練や経験を積んできたため、不適切な措置にすぐさま気がついた。
そして最初に搬送された町立病院の医師が撮影した受傷間もない小さな傷の写真から、遺体の手術痕など死亡するまでの経緯などを踏まえ、遺体が最後に残した死の真相を示す客観的事実を丁寧に拾いながら司法解剖を行った。
検察からの記述削除の要請を断固として拒否
鑑定書に、夫には受けた傷に対して標準的治療を受けた痕跡が見あたらなかったこと、標準的医療がなされていれば死ななくて済んだ可能性があることを明記した。
だが、清水は鑑定書を見た検察側から「その記述は消すように」との指示を受ける。
検察の見立てでは、妻は口論になって刃物を持ち出し、上から刃物を振り下ろして首に刺したとなっていたからだ。首に向けて振り下ろしたために、そこには妻の殺意があったというロジックである。
だが司法解剖の所見では、傷は果物ナイフを上から振り下ろして首を刺してできたものではなかった。実際の傷ともマッチしないのである。創角(傷口)を見ると、刃物は体に向かって下から外側方向に刺さったことを物語っていた。
清水は、検察からの記述削除の要請を断固として拒否した。
一審で検察側は、病院側の主張する「出血性ショック」と「左肺血気胸」が死因だったと主張し、清水の法医解剖の鑑定を証拠として採用しなかった。司法解剖による医学的.専門的な死因調査を無視するという暴挙に出たのである。