アメリカから奥さんや恋人を呼び寄せた兵士や、日本人のオンリーを持ったGIなどは「自分が戦争に行っている間、彼女は自分を待っていてくれるだろうか、ほかの男と浮気しないだろうか」と不安になるらしかった。そこで自分のペニスと同じ大きさの張り形を作って、寂しくなったら、これを自分と思って使って欲しいというわけである。
注文した性具を取りに来ない理由
しかも3日後とか4日後までに欲しいとものすごくせかせたのに、3か月4か月経っても取りに来ない。そういう張り形があまりに溜まったので、寛龍が画用紙の脇に書かれた名前をもとに知り合いの士官に調べてもらったところ、注文した2日後、3日後に出動を命じられ、そのまま戦死したというGIがたくさんいた。まさか戦死したGIの張り形を奥さんのところに届けるわけにも行かないから、お坊さんに頼んで画用紙ともども供養して焼いてもらったという。彼らはキリスト教徒だろうから、最初は教会にお願いしようと考えたが、どう考えてもキリスト教と張り形の供養はピタッとこない。死者の供養に仏教もキリスト教も関係ないはずだと考え直してお坊さんに頼んだのであった。
それが1回だけでなく、2回3回と重なったことがアメリカ相手の商売から転換しようと決心したきっかけになった。そういう形で戦争と結びついていくことが心の負担となったのである。
ただし巨大なペニスの描かれた画用紙が、「あか船」には今でも10枚くらい残っている。1963年、和夫が店を継いでから整理していた際、押入れから出てきたものである。「あか船」の歴史を語る証拠だなあと思ったら捨てるに忍びなくなったという。
朝鮮戦争については息子の和夫にも心に残っているエピソードがある。「助け舟」という性具のあることを知ったアメリカ軍からその注文がきたのである。和夫は高校生だったが、父親のいいつけで自転車で納入に行ったから、よく覚えているという。ラジオくらいの大きさの箱に入れて運んだから何個納めたかはわからないが、1個や2個でなかったことは確かである。
そして注文が何個あったか以上に和夫には「助け舟」の注文が軍からきたことが印象に残った。戦時中には父の寛龍と軍医大尉、それに性具の職人だけの秘密だった「助け舟」をアメリカ軍は堂々と傷病兵に対する治療の一環と考えていたのである。