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 セックス・ドラッグ「あか船薬舗」が開店したのは1929(昭和4)年9月、寛龍が27歳の時だった。これが公許された日本初のセックス・ショップである。

 寛龍は1902(明治35)年6月、香川県丸亀で生まれた。父親は日清戦争に従軍した元大尉である。寛龍は父親の影響もあって、将来は満州で一旗上げたいというのが少年時代からの夢で、拓殖大中国語科に入学した。

 満州では自動車運送屋をやりたいと考え、当時としては珍しい運転免許も取得した。ところが卒業を翌年に控えた1928年6月、満州・奉天郊外で張作霖爆殺事件が勃発、満州への渡航が一時禁止された。禁止令が解けたらすぐに渡航するつもりだったが、それまでのつなぎとして、セックス・ショップを開いたのである。中国は性の文化の国だから、セックスの知識を蓄えておくのは邪魔にならないというくらいの気持ちだったが、時代はそのまま満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと泥沼の15年戦争へと突入して行く。寛龍にとって生計費稼ぎと語学の勉強を兼ねて開店した「あか船」が、そのまま本業になったのである。

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写真はイメージです ©iStock.com

(中略)

 戦局が下り坂に向かった1943年か44年のことだった。相模原(神奈川県)にある陸軍病院から呼び出し状がきた。当時の戦況から、寛龍は「セックス・ショップなんか閉鎖しろ」と命令されるものと思って出かけたところ、軍医大尉が「不能者がセックスができるようになる器具を作ってくれ」という注文だった。戦場から送られてくる傷病兵の中には股間をやられて不能に陥った兵隊が相当数にのぼった。「軍国の妻なんてきれいごとをいっても、これから10年も20年も夫婦関係なしというわけにはいかんだろう」というのである。

恩賜の義茎が授けられてもいいはずだ 

 実は寛龍は日頃から、手足をもがれた兵隊のために恩賜の義手や義足があるのなら、陰部を失った兵隊に恩賜の義茎が授けられてもいいはずだと公言していたから、「軍人にしては話がわかるなあ」と感心して引き受けたという。

 この時作られたのは「助け舟」と呼ばれる性具で、骨折した時に添え木をするように、ペニスを骨折した骨に見立ててゴムの輪をあてがい、両端と真ん中を固定しようというものであった。これを製作したのも満州事変で陰部の神経が切れたという旧兵士で、性的な欲望とのギャップに苦しんだ末に「あか船」で性具の職人になったのであった。

 ただしどれくらいの数が作られていたかは和夫にはわからないという。当時、ゴムは統制品だったから、そのような「ふらちな用途」に使うことはできなかった。大尉がこっそりとゴムを横流ししていたもので、そのことは大尉と寛龍、性具職人だけの秘密であった。