現役引退後、解説者を務めていた落合博満が中日ドラゴンズの監督に就任した2003年シーズンオフ。翌シーズンは新人監督によるセ・リーグ優勝という快挙を成し遂げ、多くの中日ファンが歓喜に沸いた。しかし、就任当初は関係者もファンも歓迎一辺倒のムードではなかったという。
ここでは、日刊スポーツ新聞社、Number編集部を経て、フリーライターとして活躍する鈴木忠平氏の著書『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋)の一部を抜粋。落合政権誕生時の現場の空気について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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中日 落合 新監督──
落合に会った次の朝も、私は時間通りに起きることはできなかった。
東京から名古屋に戻った前夜はそう遅くならないうちにベッドに入ったはずだったが、おそらく今日もただ何かを待つだけの一日だろうという倦怠感がだらだらと微睡を引き延ばした。ようやく川沿いの小さなワンルームを飛び出したのは、時計の針が午前11時にさしかかったころだった。
ナゴヤ球場に着くと、もう太陽は高いところにあり、グラウンドには選手たちの声が響いていた。かつては一軍の本拠地だったこの球場も今は二軍専用となっている。外壁は色褪せて、バックヤードの通路には塗装の剥げた配水管が剥き出しになっていた。私は前の日とまったく同じだけの荷物が入った鞄を天井の低い記者室に放り込むと、そのままダグアウトへ出た。後ろから声をかけられたのはそのときだった。振り返ると、他の選手よりも頭ひとつ抜きん出た巨体が立っていた。山本昌──通算150以上の勝ち星を稼いできた、このチームの顔の一人である。
「ねえ、き、きょうの新聞、ほ、ほんと?」
38歳のサウスポーは気持ちが昂たかぶるとこういう口調になる。もう、ひと汗かいたのだろう。顔が上気し、襟足が濡れていた。山本昌が何のことを言っているのかは、すぐに察しがついた。
家を出がけにひっつかんできた我が給料主たる一部120円の新聞紙面には、でかでかとカラーの見出しが打ってあった。
『中日 落合 新監督──』
山本昌の気になっているのは、それだ。
「ほ、ほんとに、落合さんがやるの?」
ベテラン左腕の顔は真剣だった。ただ、私はその問いかけに「さあ、どうなんでしょう」と曖昧な苦笑いを返すことしかできなかった。自分もついさっき紙面を見て知ったのだ、とは言えなかった。