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巴投でクマを滝壺に投げこんだ、竹五郎の孫・酉松

 竹五郎の孫の酉松も祖父の血をひいて名人だった。38、9歳の頃、山本郡と西津軽郡の境の山に雉(きじ)を射ちにいって大クマにばったり出あった。弾丸をつめかえる間がないので雉弾で射った。クマは崖下に落ちた。その下は滝壺になっていた。酉松はクマが死んだと思って降りていった。するとクマはむっくりと起き上がって咬みついてきた。酉松はこのクマを巴投で滝壺に投げこみ、重傷を負いながらひきずって帰ってきた。

 軍隊でも鉄砲の腕では彼の右に出る者がなかったが、名うての乱暴者で酒乱だったので営倉(編集部注:懲罰用の収容施設)に入れられることもしばしばだった。村でも鼻つまみだったが、佐藤忠俊さんに日本刀で脅かされて以来、彼には頭が上がらなかった。能代の女に騙されて怒り、村を出奔、マタギ特有のネバリで捜して歩き、数年後に、女が大阪で情夫と暮らしているのをとうとう見つけて山刀で叩っ斬って自首した。晩年は悪く、盲目になって東京にいたのを連れ戻され、淋しく死んだ。

傷あとをつけないよう鹿を射止めた「一発佐市」

 佐藤佐市は竹五郎時代の者だが、たった一発で獲物を斃(たお)して仕損じることがないので「一発佐市」の呼び名がついていた。無口で、向こうがものを言わなければ一日でも黙っていた。喜びも悲しみも顔に表わしたことのない男だった。

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 佐竹の藩主が彼の評判を聞いて、その腕前を見たいと思い、藩主所有林で大シカ3頭を射とめてこいと命じた。佐市かしこまって退出しようとすると、敷物にするのだから弾丸の傷あとがあってはならぬ、傷あとをつけないように射とめてこいとの難題。

 殿様の方では難題を承知で出したわけで、佐市がどうするかと愉しみにしていた。数日たつと佐市は注文通りの大シカ3頭を車に乗せて運んできたので、調べてみるとなるほど弾丸あとがない。こんどは殿様の方がわからなくなった。

 そこでどのようにして獲ったか、との御下問に佐市の答えて曰くには、シカは危険が迫って逃げるときは白扇と称する尾を立ててゆくものである。そのときこちらで大声を発すると、ちょっと立ちどまる。その瞬間に肛門に射ちこんだのです、と。解体してみると佐市のいう通り弾丸は肛門から入って首のあたりで止まっていた。佐竹候は感心して、なるほど汝は評判通りの名人じゃ。一発佐市の名を公然と唱えるがよい。余の所有林(禁猟区)も汝に限り立ち入りゆるすと言ったと伝えられている。一発佐市は別に念入り佐市ともいわれ、自信がなければ絶対に射たなかった。半日狙って仕とめたという話もある。なかなかの堅人で女房以外の女性は知らなかったという。一発佐市が使用した火縄銃は、私が貰っていたが、私蔵すべきでないと思い、山形県の博物館に寄贈、そこに展示されている。しかし銃そのものは決して立派な品ではない。こんなものでよく走っているシカの、しかも肛門に命中させたものと感心する。