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業界の寵児が「死刑囚の息子」なのか?

「あのとき、多くの人に言われたんですよ。“似ている”って。私自身、確かに似ていると感じました」

帝銀事件の犯人として死刑判決を受けた平沢貞通(左)と若き日の酒井政利さん

 若き日の平沢の鼻筋の通った顔立ちは、確かに酒井さんに似ている気もする。『女性自身』の記事によれば、酒井さんと平沢の関係を指摘する匿名の投書が編集部に舞い込み、取材が始まったという。

 投書の内容を元にした同誌の取材によれば、平沢が描いたテンペラ画のモデルとなった女性の1人と、妻子ある平沢が不倫関係となり、男児が生まれた。そして3歳の時、男児は和歌山県の酒井家の養子となり、「酒井家の三男」として養父母に育てられたという。

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 酒井さんは小学生のころから絵画の才能を発揮し、高校時代には故郷の町を紫一色で描いた作品が和歌山県の美術展で「特選」に入賞したこともある。だが、このことは著名な画家であった平沢の「隠し子説」を補強する作用をもたらした。

 当時、H記者の取材に応じた酒井さんは、囁かれる噂について、それを明確に否定することもなく次のように語っている。

<そう思われても仕方ないことがあると言えばあったのです>

行員ら12人が毒殺された1948年の「帝銀事件」の現場。事件にはいまも多くの謎が残されている

自殺をも考えるほど悩んだ中高生時代

 酒井さんは、地元・和歌山で建築設計事務所を営む父と、専業主婦の母という裕福な家庭に育った。8人兄弟の末っ子であったが、経済的にはなにひとつ不自由することなく、昼はミカン畑で遊び、夜には太宰治や三島由紀夫の耽美的作品に傾倒する多感な少年だった

 映画にも熱中した。両親も息子の映画館通いを推奨し、ヴィスコンティの『夏の嵐』に感銘を受けた酒井さんは、映画プロデューサーの世界に興味を持つことになる。

 そんな酒井さんが、自分の「本当の両親」について、疑念を持つきっかけとなるできごとが起きたのは中学生時代のことだった。H記者に対し、酒井さんはこう語っている。

<中学時代に近所の人から何かと言われたことはあなたもお調べになりましたね>

 酒井さんはここで、近所の人から突然「お前は平沢の愛人の子だ」と言われたことや、高校生時代にも伯母から「マサちゃんは、帝銀事件の平沢貞通の坊ちゃんなんやてねえ」と言われ、実の母とされる女性の名や住所を知らされたことなどを認め、自殺をも考えるほど悩んだことを告白している。

 だが、自分を育ててくれた父はすでに他界し、実の母とされた女性も『女性自身』の取材を受ける前に死去していたことが分かった。そして、残された「育ての母」に真実を確かめることもはばかられた。酒井さんはこう語っている。

<真実を避けて通る、ある面では人間らしくない青春時代でした。私は、私の父はもうこの世にいないと信じています>

犯罪史上も例のない事件になった「帝銀事件」。扱った書籍も数多い

 酒井さんは、当時『女性自身』の取材を受けた意図について語った。

「正直に言えば、週刊誌との関係を悪くしたくなかったんです。あのころ、私がいちばん苦労していたことのひとつが新人の売り出しでした。パッとしない新人がいても『期待の大型新人だからね。ドーンと書いてよ』と週刊誌にお願いし、無理を聞いてもらっていました。当時の雑誌はいまよりよほど影響力が大きかったですからね。私自身のことであれば、放っておいてもそのうち世間は忘れるだろうとも思いました」