自らの身にも及んだ「スキャンダル報道」
いつの時代にも人気芸能人たちが受ける「スキャンダル報道」の洗礼についても話が及んだ。人権意識がいまよりも低かった時代、特に女性アイドルは、根も葉もないひどい記事を書かれても、反論する手段が限られていたこともあって、泣き寝入りを余儀なくされることが多かったという。
「白雪姫」と呼ばれた天地真理が「黒雪姫」にされた悔しさ。また山口百恵も標的にされ、刑事事件に発展した1970年代後半の「芸能界交歓図」スキャンダルなどについて回想した酒井さんは、ふと自身の経験に話を振った。
「彼女たちだけじゃない、私にもそういうことがあったんですよ」
それは、酒井さんの「出生の秘密」に関係するものだった。
「1972年のことでした。忘れもしない『女性自身』のHさんという記者の方が突然来られて、あの帝銀事件の犯人とされていた平沢貞通さんが私の父であるという噂について確かめたいというんですね」
酒井さんに関する基礎資料を事前に集めて取材に臨んでいた関係上、その噂が過去に取り上げられたことがあるのは知っていた。しかし、過去に酒井さん自身が「この件について語るのはこれで最後にしたい」という趣旨のコメントを当時の雑誌に寄せていたこともあって、関連の質問を切り出せないでいた。
しかし、酒井さんは「書いてくださって結構ですよ」と笑みを浮かべながら、自身のルーツにまつわる物語を語り始めたのだった。
1948年の毒殺・強盗「帝銀事件」
「帝銀事件」は、まだ日本がGHQの占領下にあった1948年1月26日、東京・豊島区の帝国銀行椎名町支店で起きた行員毒殺・強盗事件である。
厚生省技官を名乗る男が帝国銀行椎名町支店に現れ、「近くで集団赤痢が発生したため予防薬を飲んでもらいたい」と行員らに青酸化合物を飲ませ、現金や小切手など約18万円を奪った。この事件で行員ら12人が死亡している。
捜査は難航したが、事件発生から約7ヵ月後の8月21日、捜査本部はテンペラ画家・平沢貞通(当時56歳)を北海道小樽市で逮捕した。平沢はいったん犯行を自供したものの、公判では無実を主張。1955年に死刑判決が確定したが、その後も平沢は冤罪を訴え続け、支援者らとともに獄中闘争を繰り広げていた。
事件から四半世紀が経過した1972年、女性週刊誌『女性自身』(光文社)に次のようなタイトルの記事が掲載された(1972年8月26日号)。
<死刑囚・平沢貞通の“愛人の子”の疑惑に耐えた25年間!>
青山和子の『愛と死をみつめて』でレコード大賞を受賞し(1964年)、南沙織、天地真理、フォーリーブスら人気アイドルを世に送り出していた酒井さんはCBS・ソニーのチーフディレクターという要職にあったが、その業界の寵児が「死刑囚の息子」であったとする報道は、業界に少なからぬ衝撃をもたらした。