《持っている権利は、主張したほうがいい。次の言葉を覚えておこう。「人は権利を守る生き物だ」(中略)弱者には弱者の生存方法がある。(中略)権利を守るのが弱者の論理なのである。》(『1%の努力』55~57ページ)
彼はこのように述べて、自分の利益になるなら、ルールの穴をついたり、サボタージュをしたりすることを推奨している。確かにこれらは資本家にとっては都合が悪い主張なのだ。
生まれついた才能の格差や経済格差は諦めろ
また、ひろゆきがこうした思考や行動を推奨する前提として、幼少期に住んでいた団地での経験を紹介している。そこに住んでいた人々は、確かに経済的には貧しかったのだが、一方で生きるためのしたたかさがあった。資本主義的な規範からは外れており、しばしば非合法的な行動もするが、ひろゆきの目には、それこそがまさに生き生きとした豊かさと映ったというのだ。
通俗道徳からみれば怠惰で遵法意識に乏しいが、したたかに泥臭く日々を生き抜く庶民に共感していく視点は、ある種の左翼的な視点とも共通する。素直に読めば、この本は、くだらない庶民を切り捨ててエリートになろうとする者のためにあるのではない。それぞれの個人が、等身大のままに、この世の中を生き延びていくための本なのだ。だから、この衰退国家で生き延びていかなければならない現実に疲れ切っている若者の共感を集めるのは自然だと思う。
しかし他方で、左派やリベラルの思考に接続され得ない、決定的な断絶もこの本にはある。ひろゆきは、社会運動による世界の変革という発想がない。彼は、生まれついた才能の格差や経済格差は諦めろと主張する。
《上を見て比べるのはバカらしいけど、下を見て落ち着くことを、僕は否定しない》(『1%の努力』52ページ)
与えられた条件のもとでの自分の能力を理解し、幸せになる道へと突き進むことが推奨される。政治に対する期待は皆無だ。「選挙では何も変わらない」とひろゆきは主張している(『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』197ページ)。
自分自身の利益や楽しみのために
一方でひろゆきはトランプ現象などポピュリズムへの警鐘を鳴らす。しかしポピュリズムに対抗する政治運動の方法を具体的に提示することはない。あくまで彼が提示するのは、政治から距離を置くという消極的なアプローチなのだ。
ここで指摘しておかなければならないのは、ひろゆき自身は、政府の様々な会議に呼ばれたり、自らデジタル庁の公募に応募したりしていることだ。政治に期待しないということと、政治案件に関わり続けていることは、どのように繋がるのか。少なくとも、ひろゆきは、自分自身の利益や楽しみのために、政治と関わることについては否定していない。理念を実現させる手段としての政治を否定し、政治を純粋な技術あるいは純粋な機能とみなすならば、自分は政治的イデオロギーから自由であるという自己認識のもとに、政治的なものを忌避しながら都合の良いときは政治を利用していくという立ち振る舞いが可能性となるのだ。