繁華街で宝石商を営む裕福な家庭に生まれながら、父親の再婚を機に13歳で家を追い出され、ストリートチルドレンになった生島マリカ氏。彼女が辿り着いたのは一見華やかな“夜の街”だった。年端もいかぬ生島氏がそこで体験した衝撃の出来事とは……。

 ここでは、同氏がかつて過ごした“昭和任侠の世界”を振り返りながら執筆、鈴木智彦氏が監修を務めた『修羅の花 山口組トップから伝説の経済ヤクザの息子までが素顔を見せた』(彩図社)の一部を抜粋。大胆な性格と持ち前の美貌で、周囲の人々を魅了し続けた生島氏の言葉を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

生島マリカ氏 撮影=中里吉秀

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監禁された部屋で水着撮影、入れ墨男性の車から飛び降りたことも

 これから書き起こす事件は、わたしが13歳から14歳のときに大阪の街を彷徨った約1年間にあった出来事でした。

 実母が亡くなってから、父の再婚をキッカケに自宅を追い出されてしまって、その日暮らしのストリートチルドレンを経験しているまっただなかでした。いつまでやっていたかの期間で言うと逮捕されるまでです。年数なら1年くらいにはなっていたでしょうか。では、1年のうち実際にどこでどうやって過ごしていたかと申しますと、工事現場やマンションの踊り場、ビルの屋上などで寝泊まりしたのが7割くらい。後の3割のうち2割がディスコで知り合った男女の家やホテルを泊まり歩くとかをして、最後の1割が今でも忘れないシャンテール内本町というマンションの1202号室でした。思えば、上原潤子ママや伊藤義文管長との出会いも、逮捕されることになったのも、新聞沙汰になるのも、事件が映画化されてしまったのも、たった2ヶ月も住んでいたかどうかのここシャンテール内本町さえ借りなければ、とこれを綴りながら悔やんでいます。

 家を出されて行く宛もなく、ディスコで知り合った大人の友達の家を泊まり歩き、何とかその日その日を凌いでいました。男の人に付いて行って怖い目に遭ったことは一度や二度ではありません。一度はどこで知り合ったか、街で会ったに違いないのですが、メガネを掛けた小柄な自称カメラマンという男に、「お金を払うので写真のモデルになってくれないか」と頼まれて付いて行ったことがありました。

 最初は服を着たままで何枚かポラロイドを撮っていたのですが、衣装を用意してあるので着替えて欲しいと要求してきたのです。着替えるとは聞いていないと不服を申し伝えましたが、衣装チェンジをしないとギャラは支払わないと言われてしまい、ここまできたらやるしかない、わたしは今日を生きるお金が欲しい、と仕方なく了承しました。衣装はこの部屋で着替えてくれと通されたのが物置のような狭い和室でした。男に和箪笥の引き出しから引っ張り出した衣装というのを手渡されて、見ると、黄色のビキニの他にも、一見して変な衣装ばかりなのでした。それを着ろと強要されたのです。さすがに嫌だと断ると、馬乗りになって手錠をかけられてしまったのです。

 逃げなければと、男に続いて襖を開けて出ようとしたら、つっかえ棒かなにかでしょうか、ロックをされて開かないのです。小1時間は粘ったのですが、襖はまったく動かない。しばらく監禁されてしまって諦めました。水着の着用を了承すると、襖は開いて手錠が外されたのでした。監禁された部屋で水着姿のわたしを写真に収めたら男がわたしに近寄ってきました。腕を掴まれたので振り払うと首を絞められました。咄嗟に突き飛ばして、そばにあった荷物を掴んで逃げました。今これを書きながら思い出してゾッとしています。よく生きて帰ってこれたなって。無我夢中で、どうやってその家から出られたのかまでは記憶にありません。