目をかけていた従業員が精神疾患を発症
――押川さんは日本ではじめて「説得移送」を始めたそうですね。なぜサービスを始めようと思ったのですか? それ以前はどのような状況だったのかも教えてください。
押川 私は大学を中退して警備会社を起業したのですが、その会社で目をかけていた従業員が精神疾患を発症し退職してしまったことがありました。あとで家族から「抵抗して暴れて大変だった。近隣の人と数人がかりで、ロープで縛って病院に連れて行った」と聞き、「自分なら彼と話をして連れて行けた。せめて病院まで付き添ってやればよかった」と後悔しました。しばらくは自責の念で仕事も手につきませんでした。
その後、入院中の彼から、電話がかかってくるようになりました。警備員の時の習性で毎日、朝と夜に「現場に到着しましたぁ!」「仕事が終わりましたぁ!」と報告をしてくるのです。最初は私も戸惑いましたが、根気強く付き合っていくうちに彼も落ち着いてきて、病気のことも包み隠さず話してくれました。この時の彼との対話がきっかけで、「説得」を仕事にできると確信を得ました。
「精神障害者移送サービス」の構想を練るために保健所に取材に行ってみると、家族では病院に連れて行けない患者は、まるでモノのように民間の警備会社やタクシー会社によって強制的に病院へ「搬送」されていることが分かりました。寝ている布団ごと縛り上げられたり、車のトランクに入れられたりして病院に強制移送される人もいました。
前時代的な現場を知るほどに、自分なら説得して本人の同意のもとに医療につなげることができる、とかえって自信を強めました。
精神科病院の患者に人間の原点を見た高校時代
――なぜご自分ならできると思われたのですか?
押川 それは、高校時代の「鉄格子越し」の出会いがあるからです。私が通っていた高校の近くに、精神科病院がありました。そこではいつも、汚れが目立つ服を着た入院患者たちが、「ウォー」と獣のような声をあげたり、卑猥な言葉を発したりしていました。
当時、地域の人には「脳病院」と呼ばれていて、誰も近づこうとしませんでした。学校の先生はもちろん、喧嘩じゃ負けなしの不良も「あいつら何するかわからんけんのぉ」と恐れて近づかないのです。でも私は学校帰りに足繁く通い、鉄格子越しに彼らと対話を重ねました。あの頃はまだ病院の塀も低く、ビールケースを重ねることで、入院患者さんの顔を見て話をすることができたのです。彼らが語る言葉には忖度や嘘がありません。子供心に「このおっちゃんたち、本当のことを丸出しで言いよるな」「最強の人やな」と感じました。そこに私は人間の原点を見ました。
昭和の時代ですので、おっちゃんたちから、酒やタバコを「買うちこい」と言われて、近所の酒屋に自腹で買い出しに行くこともありました。だからといって何でも「ハイハイ」と言うことを聞いていると、人間関係のバランスが崩れます。相手の要求にどこまで応じて、どこで線を引くか、そういったやりとりのさじ加減をこのときに学びました。
会う回数を重ねるうちに、相手の話をまるごと受け止めた先に彼らの本音がこぼれ落ちることに、喜びも感じるようになりました。この超最難関のコミュニケーション経験が根底にあったからこそ、「説得」にチャレンジしようと思えたのです。