バブルの時代感に影響を受けて
――中川先生がファッションを楽しむようになったのは、どういったきっかけからですか?
中川 私が棋士になった20歳の頃は、バブルの真っ盛りで街中も活気があったんですよ。マルイなんかも全盛期で、ブランド物を買うのに行列していたような時代だったんです。周りの仲間もおしゃれだったんですよね。だからいろいろ影響受けて、買い物に行ったりしましたよね。
――島朗九段もおしゃれで有名でしたが、やはりバブルの時代感というのがあったのでしょうか。
中川 島先生も、まさにバブルだった昭和63年に第1期竜王を獲得されて注目されましたよね。あのときに、私の師匠の米長先生(故・邦雄永世棋聖)と島先生が戦って、米長先生は当然和服なんですけど、島先生はイタリアの一流ブランドのスーツを前夜祭と対局と全部変えてね、出られたんですよ。
――アルマーニでしたっけ?
中川 聞いたらアルマーニではなかったらしいです。何度か着たことで「アルマーニ島」みたいな感じで言われていましたが、ちがうみたいです。ただアルマーニに匹敵するくらいの一流ブランドで身を固めていましたよね。
――ではそういう時代にプロになったので、ファッションに興味をもつようになったと。
中川 なんとなくそうでしたね。
奥多摩在住、週に3日ほど登山
中川大輔八段の代名詞ともいえるのが、前述の「ファッション」と「登山」であろう。ご自身が主宰している「中川登山研」には、多数の棋士が参加して、その逸話がいろんな媒体で紹介されることも多い。渡辺名人と洋服を買いに行った話も中川八段の「面倒見の良さ」からの話だったが、この登山研の話もそれに類するもののようだ。
――今は、山のほうに住んでおられるんですか。
中川 そうです。奥多摩のほうに住んでいるんですよ。だから対局のときは、朝6時くらいに出てね、電車で2時間くらいかけて千駄ヶ谷まで来ています。
――奥多摩に引越しされたのは、山に登るためにですか?
中川 そうですね。もう十数年前ですかね。家は駅からは近いんですが、周りが山で少し行くと登山口があって、登ろうと思えば、すぐに登れる環境です。
――週のうちどれくらい行かれるんですか?
中川 3日くらいですかね。
――基本、お一人で登られる?
中川 そう。基本、ひとりです。
――中川先生といえば、「中川登山研」として、棋士や女流棋士、奨励会の方などを連れて登っておられるイメージが強いのですが、あれはわりとイレギュラーなことなんですね。
中川 「登山研」のイメージも一人歩きしているけど、あれは年に3、4回のことでね。みんなにメールで連絡して、来れる人だけでやっているものです。
「中川登山研」が誕生したきっかけ
――いつ頃から始まったんですか?
中川 17、18年前くらいかな。はじめは私の弟子が奨励会に何人かいまして。彼らは中学生でいつも将棋を教えていたんですが、たまには気分転換で山に行ってみるかと連れていったのが始まりです。それで彼らが仲間を連れてきて、また仲間が連れてきてという感じでメンバーが増えていきました。いろんな人が来てね。たまに知らない人も混じっています(笑)。
――「峰王(ほうおう)戦」という山頂で対局をする企画もされていましたよね。
中川 あれはニコ生の企画で僕と、窪田義行七段がよく登山研で行動しているので、山頂で指したらどうかということでやったんですね。中央アルプスに「将棊頭山(しょうぎかしらやま/麓からみるとその山のシルエットが将棋の駒の頭の部分に見えることから名付けられた)」という山があるので、そこに登って、山頂付近の山荘をお借りして対局しました。
――調べると標高が2730mもあるんですね。そこまで将棋盤を持って行って?
中川 スタッフが二寸盤と駒と対局時計を持って、登ったんですよ。それが2018年だから3年くらい前のことですね。