アイドル時代、生駒里奈は時に「私はみんなみたいに可愛くないから」と口にしてメンバーやファンを困惑させることがあった。それは謙遜というより、彼女のトラウマと、アイドルのフォーマットにはまりきれない自分の感情を表現した本音だったのだろう。だがあえて言うなら、俳優としての生駒里奈の強みは、美しさとともに醜さを演じることができる、美からはみ出した余剰な部分を持っていることにある。
10月、秋田県を舞台に少年少女の鮮烈な群像劇を描いた映画『光を追いかけて』が封切られ、映画ファンの間で大きな反響を呼んでいる。その映画の中で生駒里奈が演じるのは美しいミューズではなく、主人公たちの学校で起きるいじめや不登校を知りながら保身のために見て見ぬふりをする若い女性教師の役だ。それは青春時代にいじめを経験した生駒里奈が激しく憎んだ醜い大人の姿であるはずだ。
知名度で観客動員にも貢献し、映画パンフレットでも地元秋田の広告を担当して映画制作を助ける彼女が、もっと見栄えの良い役を求めることも可能だったかも知れない。だがかつて自分を助けてくれなかった大人の醜さを演じることで、生駒里奈は映画の中で長澤樹、中川翼、中島セナという10代の少年少女たちの美しさを鮮烈な対比で輝かせている。俳優という職業は美しさだけではなく、醜さを演じて人を助けることもできるのだ。
「何か別のキャラクターを演じると安心して自信を持てる」
舞台の、あるいは映像の中の生駒里奈を見ている時、シェークスピアの『マクベス』に登場する魔女が口にする有名な台詞をいつも思い出す。「きれいはきたない、きたないはきれい(fair is foul, and foul is fair...)」アイドル時代の生駒里奈は美しさに対して照れ、生々しい感情に醜さを感じて恥じているように見えた。だが今、演劇という長い歴史を持つシステムの中で、美しさと醜さは等価な資源として彼女の右手と左手に握られ、制御されている。
『僕とメリーヴェル』のゲネプロで行われた記者会見で、芸能生活デビュー10周年を迎えた生駒里奈は10年後について「絶対に俳優はやっていたいです」「女性なので結婚だの出産だの聞かれるんですが、いまはそういうのじゃなくても楽しくて幸せな人生というのも可能性として出てきている」と語った。
彼女は著書『立つ』の中で、「私は素の自分を押し出すことが苦手なのですが、何か別のキャラクターを演じると安心して自信をも持てる」と語ったことがある。アイドルではなく、俳優としての生駒里奈は、白鳥にもアヒルにもなることができるのだ。
石油の原料は、何千万年も前に死んだ生物の死体なのだという。生駒里奈が抱えてきた黒い感情は、答えを得られなかった青春の時間の死骸なのかもしれない。
でもその黒く濁る青春の死骸は、きっと10年後も20年後も舞台の上で鮮やかな炎として燃え上がり、生駒里奈の人生と観客席を明るく照らしていくのではないかと思う。青く美しい海も、黒く濁る原油も資源に変える演劇という古い文化のプラントに、生駒里奈は出会うことができたのだから。
INFORMATION
舞台『僕とメリーヴェルの7322個の愛』の配信公演は10/24(日)22:00まで(10月16日に行われたアフタートーク付きの配信公演は23日(土)22:00まで)販売中。