困っている人・弱っている人に寄り添う
ここまで説明してきましたように、『鬼滅の刃』には「少年漫画に少女漫画のセオリーを取り入れた斬新さ」がありましたが、それと同時に吾峠先生は「恋人同士ではない男女関係、さらには他者との関係性」を描いてきました。現代の日本には、「生きづらさ」や「他者との関係を構築することの困難さ」に直面する人たちが、思いのほかたくさん存在しています。
「シンパシー」と似た意味をもつ言葉で、「エンパシー」というものがあります。エンパシーもシンパシーと同じく、「共感」とか「人の気持ちを理解する」と訳されますが、シンパシーが「他人と感情を共有する」のに対し、エンパシーは「他者と自分を同一視することなく、他人の心情をくむ」ことを指します。ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)に出てくる、〈自分で誰かの靴を履いてみる〉という感覚をイメージしてもらうとわかりやすいかもしれません。
シンパシーが同情的なのに対し、エンパシーは「自分と違う価値観や理念をもつ人たちが、何を考えるのかを『想像する力』」と言えます。このエンパシーは、現代社会で最も必要な資質のひとつとされ、オバマ元大統領も以前「エンパシーは、世界を変える力になる」という発言をしていました。
『鬼滅の刃』の炭治郎の最大の魅力は、このエンパシー能力の高さと言えます。あれほど憎く思っていた鬼が最後に人間の心を取り戻して散っていくときに、炭治郎が鬼の手を「ギュッ」と握り、「神様、どうかこの人が今度生まれてくるときは、鬼になんてなりませんように」と祈るシーンには、誰もが涙を誘われます。
そうしたことを考えていて、僕がふと思い出したのは「京アニ(京都アニメーション)放火事件」です。被告人の男性が犯した罪は、決して許されるものではありません。ただ、その被告人が「僕は今まで人に優しくされた経験が全然ないので、医療従事者の人にはすごく感謝しています」と言っていたとニュースで聞いたときに、とても複雑な気持ちになりました。
「寄り添う心」が求められている?
「もし近くに彼のことを愛してくれる人がいたら、彼はこんな犯罪を起こさなかったのではないか」とか、「彼が他者に対して素直に愛情を求めていたら、こんなことにはならなかったのではないか」ということを考えてしまうのです。
もちろん、彼がしたことは絶対にいけないことであり、許されるべきではありません。しかし、彼ひとりを悪人にして結論づけようとする世論を見ていると、なんだかモヤッとするのも事実です。誰もが生きづらさを抱え、自分のことで手一杯になっている現代ですが、同情とは違った気持ちで、困っている人・弱っている人に共感して寄り添うことができたらいいなと思います。
『鬼滅の刃』が、これほどたくさんの読者に受け入れられたのは、炭治郎のもつエンパシー能力に魅力を感じた人が多かったからでしょう。『鬼滅の刃』は、あらゆる世代の人が、さまざまな視点から共感できる漫画です。だからこそ、これほどの社会現象になるような売れ方をしたのだと思います。
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