栄養失調でガリガリに痩せた何千もの人々が旗を振って…
そしていよいよ北朝鮮が見えてくると、抱いていた疑念は確信となった。「すべての渡航者が『騙された!』と感じた」という。
「向かった先は清津(チョンジン)でした。船内で『あれが清津です』とアナウンスされるとバンザイが起こりましたが、実際に港に入ると想像していなかった光景が広がっていました。北朝鮮で3番目に大きい国際港と聞いていたのに、クレーンが1、2基あるだけで倉庫もない。しかも街全体が黒いんです。街路樹、建物、道……。埠頭には何千人もの人が集まっていて旗をふっているのですが、みんな栄養失調というか極端に痩せていました」
後日、歓迎する側だった人に聞いた話では、北朝鮮では帰還事業について「日本で生活が成り立たず路頭に迷っている人を救う」と説明されていたという。しかし現地の人の目には日本で生活していた川崎さんらは栄養状態や身なりもよく、「空から降りてくる仙女様のようだったと言われました」。
北朝鮮にたどり着いた頃には、川崎さんらはすでに失望と不安の只中にいたようだ。入国の手続きを終え、ある地方都市へ向かわされたが、道中の景色も衝撃の連続だったという。
「道は舗装されていなくて、朝鮮戦争による爆弾のあともたくさん残っていました。ガリガリな牛が荷物を運ぶ牛車は怖くて、見ると動けなくなりました。
北朝鮮生活で常に苦しんだ「食糧問題」
最初に連れていかれたのは、専門学校の寄宿舎でした。ベッドの中に入ると布団がモゾモゾしたんです。何かなと思ってめくると虫がブアーって逃げていった。南京虫です。体中をかじられて病院に行き、紫色の薬を塗られておばけみたいになりました」
まず衛生環境に面食らったが、この後40年を超える北朝鮮生活の中で常に問題として川崎さんを苦しめ続けることになったのが「食糧問題」だ。
「最初の夜の食事では、ボコボコになったアルミニウムの皿に盛られたご飯と、塩水に山菜が浮いているスープのようなものでした。コーリャン(キビのようなもの)が入っているんですが、小さくてなかなか噛めないんです。口に合わなくて、10日間くらい絶食したこともあります。
国からの配給は、高校生以上で1日に乾いた量で700グラム。コーリャンとか芋とかトウモロコシです。案外多いと思うかもしれませんが、ほかに肉も魚もないわけです。仕事を欠勤とかするとさらに減らされます。まったく足りません。大豆がまるごと配給されることもありますが、油が抜かれていないので消化ができない。帰国者はみんな、消化器系の病気になっていました」