17歳で“地上の楽園”北朝鮮へ 直面した「真実」
「北朝鮮へ渡れば税金はないし、教育や医療はタダ。家もタダ同然だし、居住地や学問も自由。民主主義や自由は全て守られている、といった内容でした。これをみんなで盛り上げて、誰も否定しない。日本政府も、朝鮮総連ももちろんそう。朝日、産経、どの新聞も、北朝鮮を良く言う記事を書いていましたよ。私のように多くの在日のルーツは韓国だったこともあり、北朝鮮の情報があまりなかったので、当時共産党で視察に行った寺尾五郎氏の『38度線の北』という本はみんな読んでいました」
こうした喧伝文句は、厳しい戦後日本を生き抜く多くの人々にとって、希望そのものだった。そして当時17歳だった川崎さんも、北朝鮮への渡航を決意した。
「私は、独裁者を否定していたので金日成を礼賛する歌を歌わないなど、少し変わった生徒でしたが、やはり洗脳されていたんでしょうね。家族に先立って、1年後に合流することを約束して『社会主義国家を経験しよう!』と一人で“帰国”する決断をして、誰も親戚のいない北朝鮮に向かいました」
船上で「持ち込んだすべての食べ物を捨てろ」
北朝鮮によって無理やり拉致された拉致被害者と異なり、“自ら”向かった川崎さんたちは「帰国者」と呼ばれている。この帰還事業によって、1959年から約25年の間に在日韓国、朝鮮人と日本人の妻など9万3000人以上が北朝鮮に行ったという。
「私が北朝鮮に渡ったのは1960年です。何月かは言えません。新潟まで行き、そこからはソ連籍の船に乗りました。異変にはすぐに気づきました。日本の領海を出て日本の警備船がいなくなると、『持ち込んだすべての食べ物を捨てろ』と言われたのです。日本の植民地だった国だから喜ばれない、という説明でしたが納得は出来ない。でもみんな“地上の楽園”を信じて乗り込んでいるので、しぶしぶ従って。船のまわりの海には、捨てた羊羹やフルーツ、寿司などがぷかぷか浮かんで、異様な光景でした」