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《日プロ崩壊への序章》「会社が決めたことだ」ジャイアント馬場が迫られた“苦渋の選択”…最古参プロレスジャーナリストがみた“独立決意”の瞬間

『雲上の巨人 ジャイアント馬場』より #2

2021/11/04

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, 読書, スポーツ, ライフスタイル, 歴史

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「会社が決めたことだ」新潟大会に出場した馬場の心境は…

 馬場は苦渋の選択を迫られる。

「会社が決めたことだ。欠場だけは許されない」と判断、NET放送予定の試合に出場した。馬場はこの時点で腹を括くっていた筈だ。

 72年4月3日、「第14回ワールド・リーグ戦」新潟大会で日本テレビとの独占契約を無視してNETが馬場の試合を放送して大問題になったのだ。

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 嵐のなかの「第14回ワールド・リーグ戦」優勝決定戦は5月2日、東京体育館で行われ、馬場がゴリラ・モンスーンを破って3連覇。通算6度目の優勝を飾っている。

 しかし、馬場の優勝から12日後の5月14日、日本テレビが契約違反を理由に日本プロレスの放送打ち切りを発表したのだ。

 馬場は新潟大会に出場した心境と経緯を自伝『王道十六文』のなかでこう記している。

 たとえ口約束であっても、いったん約束したことを破るのは、私の性格としては出来ない。NETが、番組のエースとした猪木を、日本プロレスのお家騒動で失ったことに対する不満と、それに代わるものを求めなくてはならないことはわかるが、約束は約束、契約は契約だ。ましてや日本プロレスは、日本テレビと番組スポンサーの三菱電機には大恩がある。その恩義にそむくようなことは、絶対にすべきではないというのが、私の信念だった。だが一方、メーンイベントのカードまで決まっている新潟大会を欠場することは、ファンへの裏切りになる

 馬場は日本プロレスに見切りをつけ、「これが最後のワールド・リーグ戦と決めて」試合に臨んでいたのである。

©️文藝春秋

険しい顔での独立表明

 ジャイアント馬場は7月29日、東京・ホテル・ニューオータニで記者会見を開き、日本プロレスに辞表を提出し、独立することを表明する。

 昭和プロレス盛衰史を語るうえで欠かすことのできない1ページである。白い開襟シャツの胸のポケットには葉巻のケース。タイトルマッチの調印式の時とも違った馬場の険しい顔があった。

 そこには、「日本テレビ金曜午後8時」のプロレス放送や、そのスポンサー・三菱電機、育ての親である力道山への思いなどが、鉄の意思となって刻まれていたような気がしてならない。用心深い馬場にとっては、思い切った決断だった。

 日プロを退団するに当って、もちろん日本テレビと綿密な下交渉があったことはいうまでもない。

 馬場は松根光雄運動部長と担当の原章プロデューサーから「マトモなプロレス団体になるなら放送を再開してもいい」という意向を聞かされ、最終的に当時の小林与三次社長から「君がやる気があるなら、後は俺にまかせろ」と力強い言葉を貰って独立に踏み切っている。