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2021/11/04

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, 読書, スポーツ, ライフスタイル, 歴史

馬場の日プロにおける最後の試合

 馬場が日プロに辞表を提出し、独立を表明したのは「第一次ビッグサマー・シリーズ」期間中だった。

「ポスターに名が載っているので、最後まで責任を持って出場します。会社にもプロモーターの皆さんにも、迷惑をかけません。次のシリーズのポスターからは、私を外して下さい」

 馬場は、会社側にこの旨を口頭で伝え、シリーズを欠場することなく、8月18日の宮城県石巻市中央広場特設リング大会の最終戦までフル出場する。これが馬場の日プロにおける最後の試合となった。

 60年9月30日、東京・台東体育館でのデビュー戦から約12年、海外での試合を除くと、1663試合であった。考えてみれば、私がジャイアント馬場と初めて会ったのも石巻会場だった。これも何かの縁なのだろう。

 この“第1次夏の陣”の巡業についていた私はデスクである山田隆記者(後に日本テレビの解説者)から「馬場の動きを徹底マークしろ」と指示を受けていた。

 しかし、独立表明以降の馬場は口が堅かった。「何もないよ、すべては事が決まってから……」とスキを見せないのだ。

 新団体設立の構想を聞き出そうとしたが、普段の馬場とは違っていた。日本テレビの原プロデューサーとの接触は認めたが、それ以上のことは語ってくれない。人が変わったように厳しい態度だった。

週刊文春の連載「 阿川佐和子のこの人に会いたい」に登場したジャイアント馬場氏(左) ©文藝春秋

生涯忘れ難い船旅へ

 この馬場の決別シリーズで、私は生涯忘れ難い物凄い船旅を経験した。シリーズの中盤、奄美大島を起点として喜界島、徳之島の薩南諸島を巡る3連戦だった。海は大荒れ、日プロの沈没を予感させる嵐の中の移動だ。

 名瀬港の岸壁に打ち寄せる波のしぶきが半端でない。前夜、日プロがチャーターしていた貨物船は「波が高くて出せない」という。困り果てた現場責任者の吉村道明が地元の漁業組合に掛け合って、4隻の漁船(推定2~3トン)を手配してきた。組合長がプロレス・ファンだったのがラッキーだった。

 外国人選手と一部の日本選手は、荷物の重量制限があるYS11機で空路の移動。問題の日本側は“もしも”のことがあってはと、メインイベンターがそれぞれ4隻に分かれ、喜界島に向かっての出港だった。