昭和プロレスファンに大きな衝撃を与えたジャイアント馬場の「日本プロレス」脱退。謎多きアントニオ猪木の除名事件から始まった一連を、当事者であるジャイアント馬場はどのような思いで見守っていたのか。そして、どのような経緯で独立を決意したのだろうか。

 ここでは、35年に及ぶジャイアント馬場氏の交流があった、最古参プロレスジャーナリスト門馬忠雄氏の著書『雲上の巨人 ジャイアント馬場』(文藝春秋)の一部を抜粋。ジャイアント馬場の独立表明前夜、様々な思惑が交差する当時の様子を振り返る。(全2回の2回目/前編を読む

©️文藝春秋

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猪木の追放、そしてテレビ中継

 1969年5月12日、後発局のNETテレビ(現在のテレビ朝日)は、ジャイアント馬場の試合は放送しないという約束で日本プロレスの定期番組を発表し、プロレス中継の老舗・日本テレビとの対決に踏み切った。

 これが日本プロレスの崩壊へ至る引き金となった。

 1971年12月13日、日本プロレス選手会は、アントニオ猪木を“会社乗っ取りの計画があった”として除名を発表し、日プロも猪木を追放処分にした。

 放送のエース猪木を失ったNETは、その対策に苦慮し、日プロの幹部に様々な働きかけをする。舞台裏はこうだ。

 NETの「ワールド・プロレスリング中継」には、放送に関する二つの約束事があった。

(1) “柔道日本一”の坂口征二(67年2月入団)とジャイアント馬場の試合は放送しない。

(2) ワールド・リーグ戦の公式戦は放送しない。

 という付帯条件である。

 しかし、ここに至っては約束事などなし崩し。猪木の退団を楯に次期エース坂口の試合放送を迫ったのだ。日プロにとってはNETの放送料は大きな魅力である。結局、坂口の試合放送を許すことになる。

 一方、フロントには、分裂の危機感などまったくなかった。「なんとかなるだろう」の旧態依然としたゆるい体質がモロに出たのだ。

 NETの狙いは馬場を放送に登場させることである。プロレス中継の解説者・遠藤幸吉をプッシュして「馬場の放送許可」を取り付けようとした。

 ジャイアント馬場に関しては、日本テレビが独占契約を持つ。約束を反古にすれば深刻な事態を招くことになる。

 馬場はこの件について日本テレビの関係者から「あなたがNETの試合に出たら、ウチと日本プロレスの関係は終わりになりますからね。出ないで下さいね」と念を押されている。

 馬場はこの件を幹部に何度も説明し、「契約違反だけはしないでほしい」と説得につとめている。

 ところが、日本プロレスは日本テレビに相談することなく、NET側に馬場の試合放送OKの約束をしていたのだ。