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「日本人の子どもを売りたい人はいないか」過酷すぎる“引き揚げ”の記憶に苦しんだ五木寛之を救った“意外な言葉”とは

『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』より #1

2021/11/06

被害者と加害者のはざまで

 なぜ語りたくないか。いろんな理由があるでしょうが、たぶん、それは自分たちが一方的に被害を受けたわけではないからかもしれません。

 私たちがかつて植民者の一族として、かの地に君臨していた時代があった。そのこと自体がたいへんな負い目であり、それと同時に、ソ連軍の野蛮なふるまい、戦争直後の状況下で起きた言葉にできないような様々な出来事に関して、自分が一方的被害者ではなかった。そのことを思い返すと、どうしても言葉が出てこないのです。

 たとえば、国境線を越えるトラックに、「あと二人乗れるよ」と言われて、何人かが先を争って荷台によじ登ろうとします。すると先に上った二人は、後から乗ろうとする仲間を足で蹴落とし、あるいは突き落として車を出してしまうしかない。

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 平壌に進駐してきたソ連兵に丸刈りで入れ墨をした元囚人兵が多かったのは、ソ連の戦闘部隊はそういう連中を第一線において、その後から正規軍が進駐していくという方式だったからだと言われています。そのため、チンギス=ハンのヨーロッパ侵攻ではありませんが、非常に乱暴かつ言語に絶する出来事がたくさん起きました。

「女衒」のような行い

 その当時、日本人の間で発疹チフスが大流行していました。朝鮮との国境に近い延吉(えんきつ)という土地から来た人に多かったので延吉熱とも呼ばれましたが、これに罹ると体中にピンクの発疹が出て、すぐに亡くなってしまいます。

 収容所では発疹チフスが蔓延し、赤ん坊は栄養失調になり、ちょっと風邪を引いたぐらいでも肺炎になって次々に死んでしまう。そういう絶望的な状況でした。

「何とかして子どもには生きていてほしい。この子を現地の人に預けたいが、誰か欲しい人を見つけてくれませんか」

 子どもを抱えた母親から、そういう相談を受けることもありました。極限状態のせいか、私自身さほど不思議にも思わなかったし、このまま母子一緒に死んでしまおうと考えるより、せめて子どもの命があるだけでも、という発想が当たり前に思えたのかもしれません。

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