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 私はそれを、自分のような人間でも生きていくことができる、生きていく資格があるんだと単純に受け取りました。そのときは本当に、「ああ、ひょっとすると、この人の考え方によって自分は救われるかも」という感覚がありました。

 もちろん、そのときはまだ親鸞の全体像も見えていないし、その宗教的な業績も、どういう生涯を送ったかもよくは知りませんでした。ただ、親鸞という人がこう言っている──あらゆる人は全て悪人であり、人は誰もが悪を抱いて生きている。悪を抱き、深い罪を意識して悩んでいる人たちのためにこそ救いというものはあるのだ、と。

「自分も生きていくことが許される」という感動

 私の親鸞に対するイメージはそれがもとになっていて、実際、そのときは非常に単純なかたちで、親鸞聖人という人、その思想が見えていた気がします。

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 私ども人間は、生きていくためにさまざまな罪や悪を犯しつつ生きています。しかし、だからと言って、罪や悪を抱いている人間に生きていく資格がないわけではない。罪や悪によって自らの心に深い傷を負い、それを隠して生きている自分。それでもとにかく生きていくのは許されることかもしれない。そう思うことができたのです。

 そのとき抱いた親鸞に対する思慕の情、救われると言うと大げさで、思想というよりむしろ感情に近いのですが、「ああ、この人は自分のことを分かってくれるんだ」という感覚があった。別にそこで浄土真宗に目覚めたわけでも、親鸞の思想に開眼したわけでもありませんが、「とりあえず、自分も生きていくことが許される」という感動は非常に大きなものがありました。

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