野村氏が新庄を「宇宙人」と表現した理由とは!?
「こんな話もある。ある阪神のコーチが新庄に、『もっと走り込んで下半身を強化しなさい』と言ったら、『ジーンズのサイズが大きくなるから嫌です』ってキッパリと断ったというんだ。プロ野球選手が下半身強化よりもジーンズのサイズのほうが大事なんて、聞いたことがないやろ」
そう言いながら苦笑いをしていた。野村氏のプロ野球人生のなかで、それまでに一度も遭遇したことのない選手だったからこそ、新庄に対して「宇宙人」という表現をあえて使ったのだろうと思った。
「新庄はオレの監督人生の中で、よくも悪くも誰もマネできないタイプ。43年間、プロ野球の世界に身を置いて、いろんなタイプの野球選手を見てきたつもりだけど、彼ほど奇想天外な選手はおらんかった」
ヤクルトの監督時代、野村は対阪神戦を得意としていた。新庄が一軍に定着した1992年から98年までの7年間、対阪神戦の勝敗は124勝60敗3分と64もの貯金を作った。なかでも95年20勝6敗、96年19勝7敗、97年20勝7敗と、この3年間は野村ヤクルトが圧倒している。
カモにしていた阪神において、野村が最も注目していたのが新庄だった。
初スタメン、初打席、初球、決勝ホームランでファンをとりこに
デビューはド派手だった。レギュラーだったトーマス・オマリーの故障で、1992年5月26日に一軍に昇格すると、大洋(現DeNA)戦でいきなり「7番・サード」でスタメン出場。第1打席で右腕の有働克也が投じた初球のスローカーブをフルスイングすると、打球はレフトスタンドに一直線に吸い込まれた。シーズン初スタメン、初打席、初球、決勝ホームラン。これ以上ないという豪快さで、阪神ファンを瞬く間にとりこにした。
2日後の巨人戦では、3本柱の一角だった桑田真澄からバックスクリーンへ特大の2号を放つ。
「たとえ相手が桑田さんでも、『調子が悪くなって二軍に落ちていたんだ』と思って打席に立てば怖くないんです」
新庄は当時インタビューでこう述べている。この頃からすでに持ち前のポジティブシンキングぶりを発揮していた。
守備の良さも光っていた。デビュー当初のサードからセンターにコンバートされるとその実力はいかんなく発揮された。レフトやライトの正面にフライが上がると、なんとセンターを守っていたはずの新庄が彼らのポジションの後ろまで来ている。並の走力でないことの証明だった。