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田淵幸一からのアドバイスは「よくわかりませんでした」

 けれども相手から研究されるにつれ、デビュー当時のように打てなくなっていた。豪快なフルスイングを持ち味としていたが、タイミングを外されるようなボールを投げられると、あっけなくバットが空を切る、ということがたびたびあった。新庄にもっともっと打撃成績が向上してもらいたいと願う当時の首脳陣の考えから、さまざまなアドバイスをコーチが送ったものの、のれんに腕押しの状況だった。

©文藝春秋

 ある年のキャンプで、阪神OBで「ホームラン・アーチスト」と呼ばれた田淵幸一が新庄に手取り足取り指導したこともあった。直後、報道陣から「田淵さんからどんなアドバイスを受けたんですか?」と聞かれると、新庄はたった一言、「よくわかりませんでした」と真っ白い歯をキラリとさせるだけだった。「仮に本当にわからなかったとしても、報道陣に『わからない』と言って笑うのは、プロとしていかがなものか」と苦言を呈する阪神OBもいた。 

 96年から98年の3年間の新庄の打撃成績は、打率2割2分から3分台に低迷し、98年にいたっては、前年20本打っていた本塁打がわずか6本。打点も前年の68から27まで落ち込んだ。

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新庄は外見や振る舞いとは裏腹に、繊細でナイーブなタイプ

 そんな状況下で野村は98年秋、吉田義男に代わって阪神の監督に就任。直後の秋季キャンプで、野村は新庄と話す機会があった。打撃について1つ、2つ新庄の問題点を指摘すると、「ちょっと待ってください。それ以上言われてもわからないので、また今度にしてください」と新庄のほうから一方的に野村の話を打ち切ってしまった。これほどまでの才能を持った選手がなぜ打撃技術が向上しないのか、野村はこのときピンときたという。

「アイツはきた球をただ打っているだけだったんだな。何も考えずに打っているから、成績が残せないんだ」

新庄剛志 ©文藝春秋

 新庄と話したことで、もう1つわかったことがあった。

「外見や振る舞いとは裏腹に、繊細でナイーブなタイプである」

 ヤクルト時代の古田敦也や池山隆寛のように、きつい言い方をすると途端にやる気をなくしたり落ち込んでしまう。直感的にそう感じたのだ。