ナチスドイツの犯罪行為について、日本では「ドイツ人は過去を気にしすぎる」「ナチスを称賛するだけで逮捕されるだなんて、ドイツには言論の自由がないのか」などの意見を聞くこともあります。
前述の小林賢太郎氏の騒動では、ある日本の著名人が「コントの文脈を見ずに解任するのはどうかと思う」などと彼に同情を寄せていたぐらいです。
でも筆者は、この意見には賛同できません。たとえば、広島と長崎の被爆者をネタに外国人がコントをしたら、日本人はどう思うでしょうか? もし13歳で北朝鮮に拉致された横田めぐみさんについて外国人がそれを元に笑い話を創作したら、日本人はどう思うでしょうか? 趣味の悪いジョークとして批難を集めることは必至です。
日本とドイツ、教育の違い
ドイツでは子どもの教育の場でも、ナチスの失敗を学べるよう徹底されています。例えば、『あのころはフリードリヒがいた』はドイツで教育を受けた人なら誰もが知っている本です。
この本は子どもの立場で描かれています。主要登場人物は、ヒトラーが政権を握る前から同じ集合住宅に住んでいたユダヤ人の男の子「フリードリヒ」とドイツ人の「ぼく」。
家族ぐるみの付き合いがあり、互いの家に遊びに行ったり、休みの日に一緒にプールで遊ぶなど子どもらしい日常が綴られています。しかし、そんな日常が少しずつですが、確実に悪化していきます。
仲良くしていたはずの隣人から突然冷たくあしらわれたり、通っていたプールの管理人から「汚いユダヤ人が! 二度とプールに来るな!」などの罵声をあびせられたり。最終的には、集合住宅の管理人のせいで防空壕に入れなかったフリードリヒは、空爆によってその短い命を失います。
本では最初から最後まで一貫して、「普通の市井の人々」があたかも自然の流れかのように加害者になっていく様が描かれてます。筆者も子どもの頃に読みましたが、今も忘れられない一冊です。
日本では戦争の加害者性を見つめるような教育がなされません。小中学校で読まれる本の中には日本人が被害者として描かれた本が多く(もちろんそれも大切な視点ですが)、「日本人よって苦しめられた人々」の話を子どもたちが知ることができる機会が少ないことが気になります。
『あのころはフリードリヒがいた』を読み、学校の授業の一環で街の近くにある強制収容所跡地に出かけるといった教育を受けてきたドイツ人にとって、「ホロコーストをジョークにする」というのはありえないことであり、ナチスドイツによって多大な被害を受けたドイツ近隣諸国の人たちにとっても、それはまたありえないことなのです。