戦国時代、自分が治める民の安寧のためにも、死後までを考えて統治の安定を図ることは君主の務めの一つだった。しかし、屈指の戦上手として、その名を広く知られた上杉謙信は、子どもを持とうとしない権力者だったのだ。はたして彼にはどのような考えがあったのだろう。
ここでは、評論家・アンソロジストとして数々の著書を執筆する長山靖生氏が、偉大な事績を遺した「おひとりさま」の言行と信念をまとめた『独身偉人伝』(新潮新書)の一部を抜粋。上杉謙信の生涯を振り返りながら彼の信念に迫る。(全2回の2回目/前編を読む)
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義のための独身、家名のための模索
戦国時代(室町後期)は各地で同族相争う合戦が絶えませんでした。その原因の多くは「自分の子を後継者に」「兄ではなく弟が」という家督を巡る一族内の争いです。
そもそも南北朝の争乱も応仁の乱も、それが大きな誘因でした。南北朝以前の鎌倉後期に、皇統は後嵯峨天皇の子である後深草天皇(兄。持明院統、後の北朝系)と亀山天皇(弟。大覚寺統、後の南朝系)それぞれの子孫が皇位継承を求め、幕府の調停で双方が順に天皇を出す両統迭立(てつりつ)が行われていました。しかしそれが数代続くうちに、両統内部にも「御兄弟御争い」が起きます。後醍醐天皇は大覚寺統の継承順位の低い親王でしたが、兄宮の子に継承権を渡す約束で「一代主」として即位しました。しかし建武の親政後は、両統迭立を廃し、兄の系統への皇位返還も反故(ほご)にしようとします。こうした皇位継承権争いが南北朝争乱の底にはあったのです。
また足利家は親子の情が濃い家系のようで、日頃は賢明な政治をしていても、子供の話となると争乱の種を撒いてしまうことが多かったのです。もう子供はできないと思って弟や養子に家督を譲る約束をしたのに、後から実子が出来たために取り消して騒乱になるとか。