度にわたって北条氏康や武田信玄と争うことに
謙信(景虎)はそうした事態を避けるべく、固い決心をしていたものと思われますが、その思想は「伯夷伝」などに見られる儒学の道徳観に基づくものでした。長幼の序を重んじて、兄を大切にし、兄弟相争うのではなく相譲り合う美学です。謙信のこうした美意識は、時に形式主義といわれますが、形を守っていれば保てた秩序が崩れ、戦火が絶えない世の中に生きたにもかかわらず、道徳的信念を貫いたのはやはり立派です。
これは越後支配権の確立や、上杉家継承の際にも同様でした。景虎は反対勢力を抑えて次第に越後の実質的統一を成し、1550年に越後守護職・上杉定実が後継者を定めずに没すると室町13代将軍・足利義輝から守護代行を命じられることで、正当な越後支配者となります。さらに52年、関東管領・上杉憲政が北条氏康に攻められて逃げて来ると、これを迎え、数度にわたって北条氏康や武田信玄と争うことになりました(川中島の合戦など)。
上杉憲政に娘を正室に迎えたいと申し出て…
この間、謙信は朝廷や幕府とのつながりを深め、1559(永禄2)年に上洛した際には正親町天皇や将軍義輝に拝謁。義輝からは管領並みの待遇を受け、61年には上杉憲政の要請もあって山内上杉家(上杉氏も同族内での争いがありました)の家督と関東管領職を相続することになります。この時、名を上杉政虎と改めるのですが、ここで一度謙信(政虎)は正室を迎えることを考えたとの説があります。ただしこれもまた、我欲を出してのことではなく、秩序を重んじてのものでした。
上杉家の家督と関東管領職を継承したとはいえ、謙信は上杉家と血縁関係にありませんでした。それは「正しいこと」なのか。そこで謙信は、上杉憲政に娘を正室に迎えたいと申し出たのです。