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「ら抜き」言葉が生まれる理屈

 また、「見られる」→「見れる」、「食べられる」→「食べれる」という変化が起こった原因についても、「これらの動詞が、他の多くの動詞と同じ変化をするようになったため」とする説がある。いわゆる「ら抜き」が見られる動詞は、「見る」などの上一段活用動詞や、「食べる」などの下一段活用動詞だが、これらが「可能を表す形」になるときには通常「-areru」という助動詞が付く。他方、「書く」「走る」などの五段活用動詞は、「-eru」が付いて「書ける」「走れる」といった形になる。

 上一段活用の動詞:

「見る(mir-u)」→「見られる(mir-areru)」

 

 下一段活用の動詞:

「食べる(taber-u)」→「食べられる(taber-areru)」

 

 五段活用の動詞:

「書く(kak-u)」→「書ける(kak-eru)」

「走る(hasir-u)」→「走れる(hasir-eru)」

 実は、五段活用動詞の変化の仕方を「見る」「食べる」等の動詞にも広げると、「ら抜き言葉」と同じ形が出てくるのだ。(上一段・下一段活用の動詞の変化の仕方が、五段活用の動詞と同じになった場合)

 上一段活用の動詞:

「見る(mir-u)」→「見れる(mir-eru)」

 

 下一段活用の動詞:

「食べる(taber-u)」→「食べれる(taber-eru)」

 このことから、「ら抜き」はこういった「特殊な形を減らし、活用を簡略化していくタイプの言語変化」なのではないかと考えられている。

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 こんなふうに、言葉の変化の中にはそれなりの理由があって起こっていると考えられる例が少なくない。おそらく先の相談に出てきた「やられる」という尊敬語も、流行っているのには何か理由があるのだろう。勝手な想像だが、「なさる」とかでは表しづらいような、カジュアルな尊敬を表すのに便利なのかもしれない。

 さて、ここで考えたいのは、こういった観点を踏まえた上で、他人の言葉に対して覚える違和感にどう対処するかということだ。

 他人の言葉を吟味するときに第一の拠り所となるのは、日本語の話者としての自分の感覚である。ただし、言語感覚に個人差があること、また言葉がつねに変化していくものであることを考慮すれば、自分の感覚を「絶対に正しいもの」として他人に押し付けるのではなく、あくまで「自分はこのように感じる」という形で表明する方が得策だろう。言葉の自然さの判断については言語学者の間でも意見が分かれるぐらいなので、簡単に「どっちが良くて、どっちが悪い」と答えが出るような問題ではない。他人の言葉に違和感を覚えた場合は、「それは変だから修正しろ」と命令するのではなく、「自分はこっちの表現の方がいいと思う」といった「提案」をして、採用するかどうかはその人の責任で決めてもらうのが良いのではないだろうか。

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