言語感覚に個人差があることは普通のこと
多くの人が集まる
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多くの人が集まってくれる (→多くの方がお集まりくださる)
「多くの方がお集まりいただき」という表現の仕方はたまに見かけるが、おそらく「多くの方がお集まりくださり」と言おうとしたところを、うっかり「いただき」と言い換えてしまったために起こっているのではないかと思う。
こういったうっかりミスや、表現の意味や用法に関する勘違いは誰にでも起こることだ。私自身、学生時代に「○○に言及する」と言うところを「○○を言及する」と言い続けていた時期がある。世の中には膨大な数の表現があるし、新しい単語や言い回しは毎日のように生まれてくる。そういったことを考えると、ありとあらゆる表現の使い方が他人とぴったり一致しないのは当然で、むしろ、かなりの数の表現について他人と了解が取れているのは奇跡的であるように思える。言葉は自然現象であるがゆえに、時代によって変わっていくものだし、語彙の知識や言語感覚に個人差があるのも普通のことだ。
他人とのズレを少なくしていくには…
とはいえ、日本語がおかしいと言われた時に「これが私の日本語だから」と開き直っていいわけではない。当たり前のことだが、言葉の使い方や理解の仕方が他人とある程度一致していなければ、円滑なコミュニケーションができなくなってしまう。言語というものの難しいところは、その知識が個人的なものであると同時に、公共的なものでもあるという点にある。他人に「日本語がおかしい」と言われた場合、必ずしも自分の母語話者としての感覚を全面的に否定する必要はないと思うが、もし大多数の他人の言葉の使い方と自分のそれが著しくずれている場合は、そのずれを少なくしていく努力は必要になるだろう。
そんなとき、もし問題が語彙についてのものであれば、辞書に頼るのが一番だ。辞書は「今の時代の大多数の日本語話者は、こういう語をこういうふうに使っていますよ」という情報を集めてくれている有難い書物なので、少しでも不安であれば参照するのが望ましい。
もし、単語よりも長い言い回しとか、助詞の使い方などについて不安がある場合は、できるだけ多くの人に意見を聞いてみるのが参考になる。言葉の問題というのは、他人の目を通さないと見えてこないことが多いからだ。