遺作となった前回の『イチかバチか』もそうだが、川島雄三監督の喜劇映画はバイタリティの塊ともいえる強烈なキャラクターの持ち主たちのぶつかり合いが楽しい。
といって、ただ捧腹絶倒するだけの映画かというと、そうではない。そこには必ずどこか乾いたニヒリズムが通底しているのだ。そのため、観ている間は楽しいのだが、観終えると寂しげな余韻が残ることが多かったりする。
そうしたドラマツルギーの背景には、「花に嵐のたとえもあるぞ サヨナラだけが人生だ」という座右の銘に代表される、川島自身のシニカルな人生観が色濃く反映されているといえるだろう。
今回取り上げる『貸間あり』は、その座右の銘の生みの親である井伏鱒二が原作の映画。それだけに、「川島雄三らしさ」を随所にうかがい知ることのできる作品になっている。
舞台は、通天閣を近くに眺めることのできる大阪の高台に建つ古いボロ屋敷を改装したアパート。その貸間に暮らす風変りな住人たちの人間模様が描かれている。
まずはなんといっても俳優陣が濃厚だ。桂小金治、浪花千栄子、益田喜頓、清川虹子、山茶花究、乙羽信子、小沢昭一、市原悦子――。そして、主演はフランキー堺だ。
フランキー堺の演じる五郎は翻訳から発明まであらゆることができるため住人たちから身勝手な頼みを押しつけられる。物語は大きく動かないのだが、個々のやりとりが名人芸レベルでとにかく楽しく、彼らのカオスな生態を観ているだけで引き込まれた。
ただ、賑やかさの奥には、そこはかとない暗さがまとわりついているのだ。
それは終盤になって露わになる。それまであまり目立つ存在でなかった益田喜頓の演じる保険屋が突如として見せる恐ろしいサイコパスぶりと、そのために起きる千代(乙羽)の悲劇。そして、五郎を「先生」と慕って替え玉受験を頼んできた浪人生(小沢)が実は他の人間にも同じことを頼んでいたという本性。いずれも表向きはスラップスティックでありながら、中身は苦い。
五郎もまた、縦横無尽に動き回るように見せ、その裏側には暗い内面を抱える。特に中盤、「どうしてそんな風に卑下なさるの?」と問うてくるヒロインのユミ子(淡島千景)に対して「あなたはね、卑下することを知らない幸せな人だ」と答えるのだが、その際にフランキー堺の浮かべる乾いた笑顔。ほんの一瞬なのだが、これが実にもの悲しく、自分を卑下するあまりに幸せな結末から逃げるというラストの選択へと繋がっていく。
まさに「サヨナラだけ」の「人生」に貫かれた作品だった。