若き官房長官と、彼を支える秘書を主人公にした小説『笑うマトリョーシカ』を上梓した早見和真さん。ぜひとも読んでほしいと早見さんが指名したのは、国際政治学者の三浦瑠麗さん。気鋭の作家と、現役政治家を間近で観察する学者が、「人間の欲望」について熱く語り合った。(全2回の2回目、#1より続く)
中身をあけるほど虚無がある
早見 三浦さんは数多くの政治家と対峙してこられて、「政治家という存在」を、そもそもどう感じておられますか?
三浦 政治家の多くは、どんな集団の中にいても、たとえばヤンキー集団のなかであっても、ナチュラルにリーダーの地位についてしまう人なんですよね。対人関係を武器に生きてきた人は、より大きな舞台を求めれば、政治家という職業に行きつく。しかし、そこで自身に大義名分がないことに気が付く場合もある。「何のために政治家になったのか」と問われ続けて、自分でもわからなくなると、敵を通じて自分を定義するしかなくなるんです。安保法制に反対している陣営、はたまた、憲法を改正しようとする陣営を否定することが自己定義になったりする。もともとは、思想とは関係なく、リーダーとしての資質がずば抜けている人物としてのし上がってきたわけですから。その中でも、総理大臣にまで上り詰める人というのは、「業の深さ」を感じさせる人ではないですかね。逆にそれがないといけないんだと思いますけれど。
早見 だとしたら、『笑うマトリョーシカ』の政治家像は、よく書けていますかね(笑)?
三浦 とんとん拍子に上り詰めていくような政治家のイメージと重なりますね。これまでの政治を舞台にした映画やドラマは、エログロを持ち込んだり、汚職を中心に据えたりして、わかりやすく描かれすぎていた。巨悪が、ひじ掛け椅子に座ってパイプをふかしている、という陰謀論です。政界はそんなに単純なところではないですね。実際には、政界の「奥の院」に分け入れば入るほど、そこが真空であり、がらんどうであるということが見えてくるわけです。
早見 清家一郎という代議士をマトリョーシカ人形にたとえたんですが、中身を空ければあけるほど、そこには…。
三浦 虚無がある。この小説の最後で、「人の内面」に落ちるところが、とても面白かったんです。ところでどうして、政界を舞台に小説を書こうとしたんですか?