「仕事をしたいから総理大臣になった」と目を輝かせて語った菅義偉氏。そんな同氏の首相在任期間はわずか1年ほどで幕を閉じた。改革を目指した「政界一の喧嘩屋」は、なぜ、そして、どのように退陣を迫られたのか。

 ここでは、日本テレビ記者として菅義偉首相(当時)の取材を続けた柳沢高志氏の著書『孤独の宰相 菅義偉とは何者だったのか』(文藝春秋)の一部を抜粋。菅義偉政権最後の10日間の実情について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

©文藝春秋

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“解散報道”の誤算

 8月31日夜10時半前、毎日新聞が一本の記事をオンラインで掲載する。

「菅総理は9月中旬に衆院解散の意向」

 この報道に、自民党内はパニックに陥る。ある若手議員は「これでは無理心中解散だ」と叫び、別の議員は「総理は頭がおかしくなったのか。今すぐ、引きずり下ろさなければいけない」と憤怒に燃えた。この報道が正しければ、菅は総裁選から逃げ出し、解散に突っ込もうとしているということだ。しかし、この前日、菅は総裁選への強い自信を見せていたばかりではなかったか。

 どんな心変わりがあったのか。菅に電話をかけるが、すぐに留守番電話に切り替わってしまう。

 菅側近は、あまりの動揺で、狼狽えていた。

「これはどういうことですか?」

「うちを潰したいんでしょう」

「解散という選択肢はある?」

「もちろん、ゼロではないです。来週、人事をやって、どういう動きになるか見てから判断するという、あくまで選択肢の一つです」

「総理は、総裁選をやりたくないのか?」

 私の口調も、キツくなってしまう。

「やらないで済むなら、という思いはあるんじゃないでしょうか」

「選択肢とはいえ、なぜ、こんなことが漏れてしまうんですか?」

「こんなものなのですね」

 一体、何が起きていたのか。

 菅は、この日の朝から、二階幹事長や加藤官房長官ら限られた人に対し、「9月中旬の解散」と伝えていた。9月6日に行う予定の人事で、党内の状況が落ち着き、さらに世論の追い風が吹けば、その翌週に解散を打つというシナリオだった。コロナの感染者数が減少を続けていたことも、背中を押していた。もちろん、菅にとっては極秘の想定であり、信頼する人間にだけ、これを伝えた。