カラフルな服装で知られる彼女は、その日、ともに色鮮やかなピンクのシャツとジーンズをはいていた。髪は横でひとつにまとめ、ハイビスカスの造花をさしている。沖縄戦の激戦地となった島の南部へ車で行くと、ヘルメットと懐中電灯で支度をして、私たちは洞窟へ向かった。
戦時中の恐怖を事務的に伝える入り口の立て札を、千恵が翻訳してくれた。立て札の解説によると、沖縄戦の間、島の多くの自然洞窟が日本軍や沖縄の民間人の隠れ家となった。この洞窟は病院として機能し、脳を損傷した瀕死の兵士をはじめ、ありとあらゆる傷を負った数多くの兵士がここで身を休めた。トイレや炊事場、寝床もあった。医師は麻酔薬なしで手術を行なった。歩ける者がこの場を離れなければならなくなると、置き去りとなる負傷者を即死させるため、注射で毒殺した。
洞窟が人々の命を救ったと、千恵は何度も口にした。地上で起こっていることに比べれば、洞窟の中は天国だったと。
悪臭やうめき声、わめき声、暗闇、恐怖…洞窟で人々が耐えたもの
私たちは壕内へ入った。ヘルメットと懐中電灯を持ってきてよかったとつくづく思った。通路は傾斜が急で滑りやすく、私は何度も岩に頭をぶつけてしまった。壕の中には闇が広がり、急に温度が下がった。大きな洞窟にいるのだと実感したのは、水滴がぽたぽた腕にしたたり、懐中電灯の光に驚いたコウモリが頭上で飛びかったからだ。地面には瓶と陶器の破片が落ちていた――ラベルを見て、ひとつは1970年代製の瓶だと千恵が教えてくれた。時にはほかのグループの声がこだまするのを聞くこともあるが、たいていいつも誰もいないという。
千恵は私に懐中電灯を消すよう言った。鼻をつままれてもわからない闇のなかに放りこまれた。戦争について、人々が耐えたもの――悪臭やうめき声、わめき声、暗闇――について千恵は話してくれた。それでも地上よりここのほうがましだった。叔母の文(ふみ)もこうした洞窟で従軍看護隊として働いたが、その詳細は知らないという。戦争末期に亡くなったからだ。
「この洞窟ではいまでも遺骨が発見される」と彼女は言った。
苦労して洞穴を進みながら、私は千恵が語った当時の状況を想像しようとした。腐っていく肉体や糞便の鼻がもげそうな悪臭、苦悶の叫び、闇のなかでぎゅうぎゅうに接し合う温かい肉体、ぬるぬると鉄のにおいのする血。戦況がさらに悪化すると、尋常でない音が聞こえてきた――ウジが腐肉を食む音だ。洞穴に差しこむ月明かりに照らされて、ウジの群れの白い花が咲く。そのウジの音を、ある生存者は「グッグッと、まるで物が煮えたぎるような音」と表現していた(*6)。
*6 訳文は『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック(展示・証言)』より引用