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 兵士を粗末な二段ベッドに寝かせ、世話をするのが彼女たちの仕事だった。幸子と学友が新しい任務にショックのあまり凍りついていると、上官が動けと命じた。傷口の膿に群がるウジを洗面器にかき出し、男性の露出した体に強張りながら、便器で用を足させ、排泄物を樽に集めて捨てに行った。外科手術では麻酔のない状態で手術を受ける兵士の体を押さえつけた。手足は切断されてもまだ熱を帯び、それを捨てるのも少女たちの仕事だった。幸子はメスの下で屈強な兵士が堪えきれずに叫び声を上げ、泣きじゃくるのを見た。目の手術の痛みがもっとも激しいことを知った。

 瀕死の兵士は水がほしいと訴え、精神に変調をきたした患者が飢餓に耐えられずに戦友の腕や脚を焼いてよこせと叫んだ。故郷で待つ家族の思い出を語る者もいたが、苦悶のあまりいらだって、少女たちの作業がもたつくものなら無能呼ばわり、顔に平手打ちを食らわせ、はるばる本土から沖縄の防衛にやってきたのに、「何たる仕打ちか、このざまは」と当たり散らす者もいた。「敵が上陸して、沖縄娘はアメリカ人と懇ろとのもっぱらの噂だ。おまえたちも手に手を取って消えたらどうだ」とがみがみ言う者もいた(*4)

*4 Ryukyu Shimpo『Descent into Hell』(MerwinAsia)

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 軍部も学徒隊に危険な任務を命じた――壕の外での遺体や四肢の埋葬、伝令、包帯の洗濯、食事や医薬品の運搬。こうした作業に出向くたび、銃撃や爆撃にさらされた。こうして少女たちは死んでいった。病棟壕がアメリカ軍による爆弾やガス弾の攻撃を受け、手足がちぎれ、頭が吹き飛んで死ぬ者もいれば、有毒ガスを吸って死ぬ者もいた。

 瑞泉学徒隊が勤務した南風原町のナゲーラ壕では、3人の少女が亡くなった。うちふたりは病死、ひとりは水汲み中の榴散弾の負傷による。「今日は私が死ぬ番だ」と毎日思いながらも、幸子は死への恐怖を感じなかった。望みはただ、苦しまず即死すること。

 他方、食料は乏しくなる一方だった。学徒と兵士はおにぎり1個で一日をしのいだ。それは少女の手のひらにすっぽり収まるほど小さなものだった。家から持ってきた櫛も鏡も歯ブラシも役には立たなくなった。身づくろいする時間も体を清潔に保つ水もなかった。顔には汚れがべったりこびりつき、頭にはシラミが、体にはノミがわいた。洞窟はすし詰めとなり、少女たちは寝る暇があれば、立ったまま眠った。月経や排便といった体の機能が停止した。当時の戦闘を思い出して、ある女性は「生きた心地がしなかった」と語っている(*5)

*5 訳文は『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック(展示・証言)』より引用

地上で起こっていることに比べれば、洞窟の中は天国だった

 沖縄戦で幸子のような少女たちが働き、亡くなった野戦病院壕跡のひとつに、幸子の娘の千恵が私を連れていってくれたのは、2009年の、湿っぽい風の吹くよく晴れた日のことだった。千恵は当時50代前半、高校の英語教師で平和活動家だ。この数年後には、大浦湾の抗議活動の現場にも私を案内してくれることになる。