沖縄戦で学徒看護隊に編成された女性、米軍基地で働くアメリカ人女性と日本人女性、米兵との恋愛結婚を夢見る日本人女性、アイデンティティに悩む「アメラジアン」、出稼ぎにきたフィリピン人女性、基地反対を訴える活動家……。

 沖縄に生きるさまざまな立場の女性たちの話を、日系アメリカ人4世の作家・ジャーナリスト、アケミ・ジョンソン氏が聞き歩いたノンフィクション『アメリカンビレッジの夜 基地の町・沖縄に生きる女たち』(紀伊國屋書店)が各所で大きな話題を集めている。

 ここでは、同書の一部を抜粋。1927年に渡嘉敷で生まれ育った女性・宮城幸子さんの体験を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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野戦病院で見る兵士の姿に身がすくんだ

 1945年3月27日の夜、幸子と学友はこれからの活動の場となる人工壕のナゲーラ壕、第62師団野戦病院の外に集まると、急ごしらえの卒業式に参加した。式場は草の生えた一画にろうそくを灯した兵舎テントだった。出席者は校長ほか数名。少女たちは師団名の書かれた名札を受け取り、大日本帝国軍の軍属になった。式典の間、少女たちは意気消沈し、もう両親に会えない寂しさやこれから味わうであろう恐怖を思い、胸が締めつけられていた。「校歌を歌ったけれど、みんな途中で泣き出して声になりませんでした」とある卒業生は回想している。

「私たちには何の希望もなかったですから(*1)」。病院の院長の一声で、一同の不安は確信へと変わった。「諸君は僕とともに戦死する(*2)」。これとは異なる情景を記憶する卒業生もいた。式典では「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ」とみんなで軍歌を歌ったという。歌が中断されたのは、少女たちが泣いたからではなく、すぐ近くで被弾し、土砂がテントにふりかかったからだ。

*1 訳文は琉球新報「証言 沖縄戦」1984年2月9日より引用
*2 訳文は琉球新報「証言 沖縄戦」1984年2月13日より引用

 その5日後の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。幸子ら島中の従軍看護隊は戦場へ投げ出された。野戦病院に次々と負傷兵が運びこまれ、重症患者が壕の外にあふれるようになった。「兵士たちの姿にみんな身がすくんだ」とある女性は振り返る。「顔のない人、手足のない人もいた。20代、30代の若い男の人が赤ん坊のように泣き叫んでいた。それもものすごい数で(*3)」。

*3 Haruko Taya Cook & Theodore F. Cook『Japan at War: An Oral History』(The New Press)