第二次世界大戦において、日本で唯一地上戦が行われた沖縄県。数には諸説あるものの、県の人口約45万人のうち、およそ14万人が亡くなったといわれており、戦争がもたらした影響は甚大だった。当時の現地の様子はどのようなものだったのだろうか。
ここでは、日系アメリカ人4世の作家・ジャーナリスト、アケミ・ジョンソン氏が沖縄に生きるさまざまな立場の女性――沖縄戦で学徒看護隊に編成された女性、米軍基地で働くアメリカ人女性と日本人女性、米兵との恋愛結婚を夢見る日本人女性、アイデンティティに悩む「アメラジアン」、出稼ぎにきたフィリピン人女性、基地反対を訴える活動家ら――の話を聞き歩いた『アメリカンビレッジの夜 基地の町・沖縄に生きる女たち』(紀伊國屋書店)の一部を抜粋。複雑で矛盾に満ちた沖縄の歴史と現実の一端を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
米兵は投降を呼びかけるも「生きて虜囚の辱めを受けず」
戦局が混迷を深めたのは、6月半ば。米軍司令官のサイモン・ボリバー・バックナー中将が砲弾を受けて炸裂した岩片により戦死し、日本陸軍第32軍司令官の牛島満中将が最後の軍命令を発したあとだ。
「今や刃折れ矢尽き軍の運命旦夕(たんせき)に迫る。既に部隊間の通信連絡杜絶(とぜつ)せんとし軍司令官の指揮は至難となれり。爾今(じこん)各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄ま で敢闘し悠久の大義に生くべし(*8)」。
*8 訳文は防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社より引用
この声明の数日後、牛島は正式に降伏することなく自決し、さらに戦闘を引き延ばした。アメリカ軍は「掃討作戦」を開始、司令官の戦死への復讐とも言われる残忍さをもって、兵士や住民を処分した。
焼けつくような6月の太陽の下、従軍看護隊の学徒たちは南の海岸をさまよった。目の前の入り江はアメリカの戦艦に埋めつくされ、背後には火炎放射器を持った兵士たちが迫っていた。
この時まで生き残っていた少女たちはひとつの決断を迫られた。海岸の崖に隠れている住民に対し、米兵は投降を呼びかけた。「米軍が保護します」と戦艦から放送が流れた。
「食べ物もあります。米軍が救助します(*9)」。
*9 『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック(展示・証言)』、 Cook & Cook『Japan at War』を参照
しかし、敵に対する戦時教育は功を奏していた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の一節を少女たちは暗唱していた。投降しようとする戦友を日本兵が銃殺するのも目撃していた。学徒たちに生きるよう励ます日本兵もいたが、「最後まで戦え」という軍の方針を押しとおす者もいた。ある日本兵から幸子は自殺の方法を教わっていた。心臓近くに手榴弾を持っていき、爆発させれば、即死できる(*10)。
*10 Mie Sakamoto“Twist in Okinawa Mass Suicides Tale”(『Japan Times』2008年6月26日)