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「自分たちを産んでくれた母親に手をかした時、私は悲痛のあまり号泣しました」生き残った男性が明かす…渡嘉敷島が“阿鼻叫喚”に包まれた一夜

『アメリカンビレッジの夜 基地の町・沖縄に生きる女たち』より #2

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息子が刃物で母親の首を刺し、兄が妹の頭部を石で叩き、男がへし折った大枝で妻子を殴り殺した

 本島上陸の1週間前、慶良間諸島にアメリカ軍は現われた。渡嘉敷島に布陣した日本軍の赤松嘉次(よしつぐ)大尉は、ひとり乗りのモーターボートでアメリカの艦船に接近し、爆雷を投下する使命を負った隊員およそ100名の海上挺進戦隊の隊長だった。赤松の方針は沖縄人に対して無慈悲だった。いかなる者も、たとえ民間人であっても、アメリカ人に投降、協力してはならない。1945年3月末にアメリカの艦隊が押し寄せると、島民に対しすべての食料を戦隊へ引き渡し、指定された場所に集まるよう命令が下された。

 500~1000人ほどの村人が長い道のりをかけて到着したその場所の近くには日本軍の陣地があり、恩納川が流れていた。アメリカ軍の赤く光る曳光弾の猛攻のなか、一晩かけて歩いてきた者もいた。集まった人々のなかには幸子の両親の姿もあった。この時、子供たちは全員、本土に疎開したか軍に動員されて、島を離れていた。

 村人たちはこれが最期かもしれないと思いながらも、その朝、女性たちはきれいに身づくろいし、髪を整えていた。何分だったか何時間だったか、刻一刻と待っていると、ついに防衛隊員から伝令を受けた。自決せよ[軍命の事実関係については議論がある]。

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 隊員から手榴弾が配られたものの、30個ほどしかなかった。発火しない手榴弾が多かったが、爆発するものもあり、手榴弾のまわりに身を寄せてひと塊になった男や女、子供たちが爆死した。爆音を聞きつけたアメリカ軍が砲撃を始め、砲弾の雨が襲いかかると、渡嘉敷の島民に異常心理が伝播した。次に起こったことを理解するのは難しい。この光景は理解も想像も絶するように思われる。吹きこまれた軍人精神、アメリカ軍に惨殺・強姦されるという恐怖心、投降を禁じる日本兵の脅し、戦争の異常心理が混然一体となって、渡嘉敷島の人々を死に駆り立てた。日本兵は特攻隊の使命を遂行しているものと村人は考えた。ならば残された道はただひとつ、国家の言う名誉の玉砕をするときだ。自分たちがこれから突入するのは、せめてもの愛ある行為。

 混乱と恐怖に陥った住民は「自力では死ねない」自分の家族を手にかけた。手榴弾がなくなると、カミソリや斧、鎌、棒きれ、石、紐、身近にあるものが次々に凶器となった。息子が刃物で母親の首を刺し、兄が妹の頭部を石で叩き、男がへし折った大枝で妻子を殴り殺した。

 「以心伝心で、私ども住民は、愛する肉親に手を掛けていきました。(略)私たちは『生き残る』ことが恐ろしかったのです。(略)“共死”の定めから取り残されることへの恐怖は頂点に達しました」と生存者の金城重明は語っている。当時16歳の金城は、母と兄、弟、妹と一緒だった。