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 アメリカ人の保護の約束など、誰も信じなかった。「悪魔の声」を聞いているのだと思ったとひめゆり学徒隊の宮城喜久子は回想する。

「子供のときからずっと、[アメリカ人を]憎むことだけを教えられてきた。娘を裸にして、思う存分凌辱して、戦車で轢き殺すのだと。私たちは本当だと信じていた。(略)そして教えこまれてきたことが、私たちの命を奪ったのだ」。

 投降する代わりに、喜久子の学友たちはみなで自決しようと教師に哀訴した。いきなり至近距離から米兵に乱射され、追いつめられた教師はとっさに一同が潜む壕の中で手榴弾のピンを抜き、9人の少女とともに亡くなった。

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「私たちは服を剝ぎ取られ裸にされるのがあまりに恐ろしかっただけです。娘にとってこれほど怖いことはありませんから(*11)

*11 Cook & Cook『Japan at War』

3分の1近くの沖縄人が犠牲に

 戦争中、日本本土の都市は大空襲に見舞われ、広島と長崎は原子爆弾を投下された。本土ではおよそ30万から40万人の民間人が命を落とした。日本で唯一戦場となった沖縄の民間人死亡率はもっとずっと高く、県の人口約45万人のうちおよそ14万人が亡くなった[県の人口と死亡者数は諸説ある]。90日の戦闘の結果、3分の1近くの沖縄人が犠牲になったことになる。日本軍に召集された者の死亡率はさらに高かった。戦闘訓練を受けていない防衛隊の「兵士」およそ2万2000人のうち60パーセントが亡くなり、大日本帝国軍が半島から連れてきて、戦闘や肉体労働、性労働を強制した朝鮮人も、おそらく大多数が亡くなったと思われる(*12)

*12 家永三郎『太平洋戦争』岩波現代文庫、ジョン・ダワー『容赦なき戦争』平凡社ライブラリー、Ryukyu Shimpo『Descent into Hell』ほか参照

 甘い愛国心を抱き瑞泉学徒隊に入隊した61人の少女のうち、33人が命を落とした。幸子は生存者のひとりになった。ひとりまたひとりと級友が死んでいくのを目撃し、次は自分の番だと毎日考えながら壕の中でなんとか生き延びた。沖縄で起こったことを本土の日本人に伝えるためにも生きるのだと言った軍医の言葉が、自決を思いとどまる助けとなった。この体験を戦後長い間、胸の奥にしまいつづけ、記憶から自分を守っていた幸子だったが、ついにある時、試練の間に芽生えた反戦の思想を広めるため、語り部として生きる決意をする。

 隠れていた幸子と学友がアメリカ軍に発見され、捕虜になったとき、幸子の洞窟での生活は終わった。驚いたことに、軍服のアメリカ人は日本人よりも親切に思えた。

 幸子の一番下の弟・実美と上の姉たちも、本土へ疎開して戦渦を生き延びた。結局9人きょうだいのうちふたりが命を落とした。召集された長兄は本土で戦死し、従軍看護婦となった姉は栄養失調で亡くなった。まもなく幸子は渡嘉敷島の両親も幸運に恵まれなかったことを知った。沖縄戦が始まる前にすでにふたりは亡くなっていたが、それは恐怖に満ちた戦闘のなかでももっとも身の毛もよだつ状況下での出来事だった(*13)

*13 渡嘉敷島の「強制的集団死」に関する記述はおもに次の資料に依拠する。Ryukyu Shimpo『Descent into Hell』、Cook & Cook『Japan at War』、家永三郎『太平洋戦争』