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「どちらさまでしょう」

 日に焼けた痩せた男性が姿を現した。一雄さんだった。挨拶をして名刺を差し出すと、静かに受け取りいぶかしげに眺めている。一雄さんは事件後も自宅で暮らしていた。突然の訪問をお詫びし、取材の目的を説明する。私たちの訪問を嫌がるようなそぶりは見られず、頷きながら話を聞いてくれたので、現在の暮らしぶりについて尋ねてみた。

「事件の当時はひどく落ち込んだが、父親の残した貯金を使って自分で野菜をつくったりしてなんとかやっている」

 一雄さんは、最近は白菜をつくっていると言い、少し離れた場所にある畑を指さした。

「いつまでも落ち込んではいられないので、少しずつ地域の人のサポートなんかを受けながら働き口があれば働いてみたい」

「(仕事は)長くしていないから、不安もあるけど……」

 服の袖口には、畑仕事によるものと思われる土が付いていた。

 そして、敷地内にある畑に案内してくれた。季節ごとにいろいろな野菜をつくって、自給自足の生活を送っているというのだ。ひととおりの会話ができた頃、父親や兄が亡くなった状況について尋ねてみた。

「亡くなる直前は、とくに変わったことはなく元気な様子だった」

「急に亡くなってしまってパニックになり、家を飛び出してしまった」

 そう言うと口が重くなり、そのあとの言葉が出てこない。今日、さらに話を聞くのは難しいと感じ、改めて訪問させてほしいと伝えると、佐藤さんは自宅の電話番号を教えてくれた。これまで幾度となく取材を断られてきたが、やっと少しだけ話を聞くことができた。私たちは「翌週に再訪します」と伝え、一雄さんの姿が家のなかに消えるまで見送った。

「家のことで手いっぱいだから」

 翌週、早速教えてもらった番号に電話をかけてみると、何度目かで出てくれた一雄さんはどこかつれない様子だった。初めて会ったときは時折笑みを浮かべて話に応じてくれたのだが、電話口では「これ以上話すことはない」と素っ気ない。近場に行くので挨拶だけでもさせてほしい、と伝えるのがやっとだった。

 翌日、一雄さんのもとへ向かい、玄関扉を叩くが応答はない。留守なのか、気が進まず出てきてくれないのか。いったん敷地から出ようとすると、裏手に人の姿が見えた。一雄さんは畑の草むしりをしていた。急いで声をかけるとこちらに気づき、作業の手を止めてこちらに来てくれた。