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「ギターといちばん距離をおいたあのころ」Charが初めて語ったPink Cloud”命名の真実”

「ギターといちばん距離をおいたあのころ」Charが初めて語ったPink Cloud”命名の真実”

竹中尚人責任編集「ロックとギターをめぐる冒険」#2

2021/12/04

source : 文藝春秋

genre : エンタメ, 音楽

note

とんでもないトランス・ゾーンの演奏「MY DELICATE ONE」

 バンドを長くやっていると……4~5年に一度、とんでもないトランス・ゾーンに入ることがある。そういう時は、3人ともお互いの目を見つめあって「俺たちすごいところまで行ったな」って感覚を全員で共有できるんだよ。プログレッシブに展開していく「MY DELICATE ONE」は、そんな俺たちの演奏がパッケージされた貴重な曲のひとつだよ。そうやって、ひとりでは到達できないような表現を体験してしまうと、本当に音楽がやめられなくなる。数年に一度しか体感できないってところが、また歯痒くもあるんだけどさ。

 ある時から俺たちはスタジオやステージ以外では会わなくなっていった。子供が産まれたばかりの頃はお互いに交流もあったけど、学校に通い始めたりして生活スタイルが変化していくと、家族ぐるみで一緒に行動することにも限界が出てきて……ふたりで会うことはあったけど3人で何か一緒のことやるのは楽器を持った時だけになっていったんだ。

『KUTKLOUD』PINK CLOUD 

 JL&Cからピンククラウドになると、オリジナル・アルバムだけでなくソロ作品のリリースも契約の中に含まれていたこともあり、制作のスケジュールに追われるようになっていった。本来なら最低でも10曲ほどデモを作ってアルバム制作に臨まないといけないのに、2~3曲しかない状態でスタジオ・ワークに突入することも多くなった。タイトな発売スケジュールという時間的な制限も重なって、音楽的な表現をしっかりと突き詰められない場面も増えていったんだ。結局、バンドだけでなく各メンバーのソロ作品も俺がプロデュースすることになり、すべてに対して本気で取り組んでいった結果、ものすごく俺自身が消耗してしまった。

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 すべてのアイディアを出し切ってしまい、音楽的な引き出しも空になった。それまで楽しいと思ってやっていた音楽を作ることが、だんだんと「作業」に変わってしまったんだよ。ちょうどその頃、銀座にSmoky Studioという制作拠点を作り、毎日、地下鉄に乗ってスタジオに通った。こんなにも残業の多いサラリーマンいないでしょってくらい、余裕のない日々だった。そして世の中はギターではなくシンセサイザーの時代に移り変わり、心身ともに疲弊した俺は、85年に日本を離れてロンドンに渡り、新たな生活をスタートさせることになる。

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